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Stand by Me
峠のドライブインはだれもいない。
敷き詰められたコンクリから雑草が芽吹き、朽ちた建物が吹きさらしの空間は、世界のはての踊り場のごとく寂れた観を呈す。
それもそのはず、この国が車社会だったのは一世紀もむかしの話。ガソリンが尽きかけてから一般人の移動手段は馬か馬車がメジャーとなり、車はすっかり見かけなくなった。
この時代における自家用車は、ごく一部の物好きな富裕層が道楽で乗り回す、一種のステータスである。
そして車を使う金持ちの大半は所々舗装がひび割れて雑草がむす荒野のど真ん中の道路をぶっとばすような自殺行為と縁遠く、ましてや廃墟のドライブインになど絶対に立ち寄らない。
命が惜しいなら常識だ。
文明が滅んでからこちら、この手の廃墟は大陸中至る所に点在するが、その大半が野生動物の巣か浮浪者のねぐら、最悪犯罪者の隠れ家になっている。
入口に掲げられた巨大な看板は錆び付いて、かすかに風に軋る。
看板の下の平屋は元はドライバーに飲食を提供するダイナーを兼ねていたのか、空から見下ろせば長方形の箱の形をしている。
入口に面した窓は天井から床まで大きくとられた開放的なガラス張りだが、今はそのほぼ全てが割れて素通しとなっている。
そんなキープアウトテープが風にちぎれて舞ってるようなドライブインに、夜陰に乗じて潜入する二つの影。
「気を付けてスワロー、ガラスが割れてる。足元危ないよ」
「てめえこそ、コケたら大参事だぞ」
「そんなドジしないよ……うぅ、やっぱり夜ともなると不気味だなあ。昼間はまだマシだったんだけど、太陽が出てないとこんな違うのか」
「ビビッてんなら先帰ってもいいんだぜ」
「び、ビビるもんか。ただちょっと……薄気味悪いだけさ。あ、そこ角材が落ちてる。転ばないで」
「ノロマと一緒にすんな、いちいち言われなくてもハナっから気付いてる」
「擦り剥いたら破傷風だよ。最悪死だよ」
「お前は破傷風に親殺されたのかよ?」
「母さんは生きてる、不吉なこと言うな!」
「親父は死んだかもな」
二人一組の影は、声を潜めて喋りながら歩いてくる。
否、潜めているのは片方だけで、もう一方は無神経な大声を張り上げている。そのたび小さいほうの影が「スワローしーっしーっ!」とさかんに人さし指を立て注意するも、大きい方は平然と聞き流す。
降り注ぐ月明かりに暴かれた姿……やや背の高い方は、十代半ばにさしかかろうしなやかに引き締まった細身の少年。鉄パイプを担ぎ、腰には大振りのナイフをさしている。
ジンジャエールのような金髪は、太陽の下で見れば輝かんばかりにゴージャスだが、月の仄明かりに照らされた今は神秘的な光を帯びている。
すこぶる整った目鼻立ちで、かっきり弧を描く眉の下、セピアがかった赤い虹彩が野卑にきらめく。
隣を行く少年は、上等なシャンパンに似たピンクゴールドの髪。よく言えば柔和で優しげな顔立ちで、ありていに言えば地味で印象に残りにくい。全身から不運と分かちがたい人のよさが滲み出ている。
髪と瞳の色が共通なので、勘の良い人間なら兄弟と見抜けたかもしれない。
ピジョンは注意深くあたりを見回し、人の気配の有無を探る。
「だれもいない……よね?あ、こら、勝手に行くな!」
「ぐずぐずすんな、おいてくぞ」
「迷子になるぞ!」
「ならねーよばぁあーか。てめえこそ、チョコと間違えてコヨーテの糞拾い食いすんなよ」
「しないよ!?まったくお前ってヤツは兄さんをなんだと思ってるんだ、拾い食いは卒業したんだ!!」
「駄バトの習性だろ?……チッ、ツマンねえ」
倒れたスツールを蹴飛ばし、鉄パイプを振り抜いて瓦礫をどかし、不機嫌に舌打ち。
「乳繰りあうバカップルもシンナー吸うワルもなんもいねーじゃん、がっかりだ!ちったァ楽しめるって期待して損したぜ。マジで無人かよ?廃墟のドライブインなんざ理想のたまり場だろ、もっとこうさァ、スキンヘッドにタトゥーボデピの阿呆どもが縄張り意識バリバリでしゃしゃってくる展開ねーの?金目のモノおいてけ!ねえなら命を出しな!って」
「出てこないでいいよ。ていうか、出てこないのが一番だよ」
「こんな幽霊しかいねーような廃墟、ガサ入れして何が楽しいんだ」
「へんなこと言うなよ、幽霊なんていないよ」
「大昔ここで殺人事件があってさ……長距離トラックのドライバーが、ダイナーのウェイトレスと恋に落ちたんだが、その女を痴情の縺れで殺しちまったんだ。灰皿でガツンと脳天一発。で、慌てて逃げ出した。てめえがちょうど踏んでる床のシミ……人のカタチに見えんだろ?そこに死体が転がってたんだ、熱いコーヒーと血を盛大にぶちまけて……」
「ひイィイッ!!?」
「デマカセだよばァああーか」
「……だよね。今日初めて来たのに、過去の殺人事件なんて知るわけないもんね」
「死んだウェイトレスはいなかったんだ、よかった」と胸なでおろすピジョン。スワローは鼻を鳴らす。
母が眠るトレーラーハウスは近くにとまっている。二人がこの廃墟に出向いた用件はほかでもない、ガラクタ漁りだ。ゴミの山からめぼしいモノを見付けだし、修理して売って、小遣いを稼ぐ。ピジョンはそうやって家計を助けている。
親孝行のピジョンにとって、ガラクタが集積したドライブインは宝の山だ。
既に悪党どもに持ち去られていなければ、ここには色んなものが放置されている。アルミの灰皿、まだ使えるライター、ふちの欠けたロゴ入りマグカップ……修繕しても到底売れそうにないモノで、ピジョンが甚くお気に召した品は、晴れて彼のコレクションに仲間入りをはたす。宝物のトランジスタラジオも、以前訪れたスクラップ置き場で手に入れたのだ。
ガラスの割れた窓から店内へ入り、殺風景な内部をおっかなびっくり見て、ピジョンが呟く。
「広すぎて昼だけじゃ回りきれなかったからね……付き合ってくれて助かる」
「俺様のおめあては空振り」
「どうしてそう喧嘩っ早いのさ……ボディガードが油を売れるのは平和な証拠だろ」
「ゴタクはいいからさっさとやること済ませろよ」
「ハイハイ。あ、暇だからって鉄パイプ振り回してやたら物壊すのやめてね?後ろで大きな音するとびくっとするんだ」
「いいからとっとといけ。しっし」
スワローが鉄パイプで兄を追い払い、あざやかな身ごなしでカウンターに飛び乗る。
兄のガラクタあさり……もとい宝さがしを、文字通り高みの見物ときめこむ方針のようだ。
ピジョンのガサ入れにスワローが付き合うのは毎度の恒例行事だ。
用心棒だよと本人は嘯いているが、ただの暇潰しだろうとピジョンは睨んでいる。
が、賢明なので口に出さない。実際弟が付いてきてくれると心強くて助かる。敵に遭遇するしない以前に、危険だらけの廃墟を一人で探索するなど、臆病なピジョンにはとても無理だ。
わざわざ夜を選んで来なくていいだろうにと思われるかもしれないが、昼間やりかけたことを放置するのは気持ち悪いし、スワローが一緒なら大丈夫という、根拠のない確信と自信がある。
コイツは口は悪いが腕っぷしは強いし、ものすごく頼りになる。用心棒としては満点だ。
もしどこからかピジョンの戦利品を横取りしようと不埒な輩が沸いて出ても、たちどころに追っ払ってくれるはずだ。実際、スワローの活躍によって窮地を切り抜けた経験は数え上げるときりがない。ピジョンにとっての|最強の切り札《ジョーカー》だ。
「朝にゃ出発だろ?」
「エンジンを休めに寄っただけだから……こんな辺鄙な場所じゃお客もこないし」
「あのボロ、峠越えられんのかよ」
「お爺さんだから……母さんが手に入れた時にはもう中古だった、|肺《エンジン》やられて息切れはしょうがない、俺達が労わってやんないと。当面エンストしないでくれって祈るよ。だからどうしても夜のうちにすませたくて」
兄弟が生まれ育ったトレーラーハウスは、もう随分と使い古されて傷んでいる。この頃はエンジンの調子も悪く、修理に手間がかかる。折を見て休ませてやらないとすぐ故障するので、長い距離を走る時や峠を越す時はインターバルを挟むのが通例だ。
今回はエンジンがぷすぷす間欠的な煙を吐き始め、車が失速しだした頃合いに、運よく元ドライブインの駐車場にさしかかったというわけだ。
これまでの経験からいくと、あのボロエンジンも朝には回復しているはずだ。
スワローが退屈そうに頬杖を付く。
「あんなデカブツ売っ払っちまえばいいのに。物好きが多いから大金が手に入るぜ」
「いやだよ、寂しいじゃないか。人生の大半を過ごした場所だぞ?愛着ある」
「俺もお前も先は長い」
「生まれてからずっとあそこにいたんだ、トレーラーハウスの中なら目を閉じても歩けるし何がどこにあるか当てられる」
「車がゆりかごでエンジン音が子守唄ってか」
「ポエムってる暇あるなら手伝ってよ、ひとりじゃ大変だ」
「せこせこ働くのはお前の仕事。で、俺様の仕事は見張り。いざって時の為に目ェ光らせてんだ、がら空きの背中を守ってやってんだから感謝しろ」
ピジョンは大人しく肩を竦める。スワローの説得は早々に諦めた。
コイツに協力を仰いだ俺が馬鹿だった。
実際なにか事が起こればスワローに頼らざるえないのでピジョンも強く出れない。兄として情けない。
埃っぽい静寂と滅入る一方の気分を払拭するため、片手にぶらさげて持参したラジオを付ける。
摘まみをひねって調整すると、アンテナが音を拾って軽快な曲が流れだす。
ピジョンはこの瞬間が好きだ。
ラジオが大気中の電波を受信し、心電図のようにブレてノイズを孕む波長が一致する、ありふれた奇跡の瞬間。
日常が非日常に接続する魔法の一瞬。
スワローが座るカウンターの横にラジオを置き、弟に背中を向けて作業に戻る。
スワローが足でリズムをとり、郷愁と哀愁を切なく織り交ぜたメロディをなぞる。
「ロックじゃねーの?」
「うるさいのは苦手」
「けっシケてんな。眠くなっちまうぜ、しんきくせえの」
「悪くないだろ?何か流れてないと静かすぎて落ち着かない」
「オバケがでそうだし?」
「オバケなんていないよ」
スワローが一方的に喋りまくるのを背中で聞き流すのも、それはそれでストレスだ。
音楽は二人の距離感をちょうど上手い具合に埋めてくれる。
音量は耳障りにならない程度に絞ってあるので、無心で作業に没頭できる。
足を蹴り上げるスワローをよそに、ピジョンは床一面を埋め尽くすガラクタの小山をかきわけて、使えそうなものと使えそうにないものを分別していく。
「掘り出し物はあった?」
「うーん……あんまりいいのない。このマグカップとブラシは使えそうかな?うげ、使用済みコンドームだばっちい!」
ピジョンが派手に騒いで使用済みコンドームを放り投げる。
手を服に擦り付けて嘆くさまを見、スワローが大きく生あくび。
「暇。青姦する?」
「ドーナツの輪に挿れたら?」
「ドーナツねえよ」
「心のエロい人にしか見えないドーナツだと思って、そこでズボン下ろして出してヌイたら?ひとりで」
「露出放置プレイかよ?難易度たけーなオイ」
「床一面ガラスの破片と砂利が散らばってるシチュでしたら刺さって痛いし破傷風になるだろ」
「どんだけおっかないんだよいやマジで。前世の死因かよ」
「身体が汚れるし服も着替えなきゃいけない」
ピジョンはもうすっかり慣れっこで、目をしっかり開けた弟がほざく寝言に、|おざなりな塩対応《ソルティテイスト》を通す。ツレない仕打ちにスワローはおどけて首を竦める。
ふとピジョンが手を止め、たった今自らがゴミの山から掘り出したアイテムに見入る。
「何それ」
「人形」
カウンターに陣取る弟にもよく見えるよう、片手を高く掲げる。
そこに在ったのは合成樹脂の人形。元々は幼児向きの愛らしい造形だったのだろうが、遊び半分に煙草の火でも押し付けられたのか焦熱の気候で溶けたのか、顔半分がケロイド状に爛れて酷く醜い。
右腕はもげて消失し、人工の髪の毛は埃と砂利に塗れて変にゴワゴワしている。しかも全裸だ。
「セックスドールにしちゃ小せェな。オナホ仕込んでんの?」
「ばか、普通の人形だよ。ドライブンにきた子どもが捨ててったのかな?随分古い……大戦前の?」
「昔の人形は頑丈だから百年ちょっとはもちそうだ。待てよ、大戦前なら放射能の熱で溶けたんじゃねーか?たしか近くの砂漠に落ちたろ、核爆」
人形は柔らかい素材でできている。
手ざわりに違和感を覚えて腹を押すと、べこりとへこんで「ぷぎゅう」と泣く。
赤ん坊に見立ててるのか?スワローが露骨に仰け反る。
「きもっ!!ホラーじゃん。人形がナイフもって襲ってくる|映画《マチネー》思い出した、前の前の街で見たヤツ。アレそっくりだ、なんだっけ、チャッピーだっけ……」
「券が買えないからこっそり忍び込んだ、町に一個きりの映画館で見たヤツね」
両手に抱いた汚い人形をじっと凝視。
ピジョンの目に逡巡の色が浮かぶ。
「おいピジョン、まさかそのキメェのお持ち帰りすんじゃねーだろな?いやだぜ俺は、枕元においといたら呪われそうだ。ぜってー夜中にキッチンナイフ持って襲ってくるって、頸動脈かっきられるって」
両手を広げて止めるスワローを無視、人形を抱っこしてカウンターへ引き返す。
髪と全身に付いた汚れを手で拭い、できるだけキレイにし、脚を揃えて座らせる。
人形の目に、夜空にぽっかり浮かぶ月がよく見えるよう位置と角度を調整して。
「よし」と満足げに頷き、連れていけない詫びをするよう頭をなでる兄の行動に、スワローがあっけにとられる。
「放射能伝染るぞ」
「……ひとのカタチをしたものがゴミに埋もれてるのはいやなんだ」
ピジョンが言い訳がましく付け足す。
偽善者め。自己満足だろ。言いたいことは山ほどあった。
それをぐっと飲みこんだのは、ラジオから流れるしめっぽい音楽と、嘗て放射能を浴びたかもしれない人形と向き合って「彼女」に月を見せる兄の微笑みが、あまりにしっくりきすぎていたかもしれない。
とことんお人好しで、優しすぎるほどに優しい兄貴。
ひとのカタチをしたものがゴミとして捨てられてるのをほっとけず、わざわざ拾い直してカウンターに移し、こんなゴミ溜めの中、少しでも綺麗な光景を、夜空を淡く照らす月を見せようとする。
あの人形は、ひょっとしたら結構な幸せ者なんじゃねえか?
ピジョンに心をかけてもらえただけで、その手に抱き上げられただけで、不具の木偶にゃ過ぎた施しだ。
スワローは兄の愚鈍さと善良さを愛する。
たとえそれが本人を不幸にするだけの余計なおまけでも、ピジョンの損得を度外視した馬鹿げた行動を見ていると、自分の中にもとからあった欠落が埋め合わされるような……
もっと大袈裟に言えば、己の原罪が贖われるような奇妙な安らぎと、それに反発する苛立ちを覚えるのだ。
スワローに元から足りない、心の完成図に不可欠なパズルの|一片《ワンピース》が、先に生まれたピジョンの中に入っているのかもしれない。
たとえば良心とか善性とかそう名付けられた、真っ当な人間には欠くことのできないひとかけら。
だからコイツは、余分に優しい。
俺の分まで、余計にしょいこむ。
安堵した自分に何故か無性にいらだって、わざと軽薄に提案する。
「踊ろうぜ」
腐った靴下の片方を指先で摘まみ上げ、眉間に皺で苦悩していたピジョンが振り返る。
「何いきなり、頭どうかしたの」
「じっとしてンのは飽き飽きだ」
反動をつけて飛び下り、すたすたとピジョンのもとへ歩いていく。
弟の放言にピジョンは閉口する。
「だったらちょっとでも早く終わるよう手伝えよ、こっちの山お前のために手つかずで残してあるんだ」
「ンなちまちまめんどくせェことやってられっか、パーッと踊りてェんだよ俺は」
「いやだよ、このトシになって兄弟で踊るとか恥ずかしい……」
「誰も見てねーんだからいいじゃん」
「ダンスするなら女の子がいい」
「俺がオンナにしてやったろ」
「おかしいな、会話が成り立たないぞ?お前が言ってること全ッ然理解できない。とりあえず今忙しくて手がはなせないから、あっちへ行って好きなだけ踊ってろ。一人で」
「ここで出してしごくぞ」
「え」
「ここでズボン下ろしてヌイていいのか?」
「ちょっと待て」
「お前がやってもいいぜ、イくまでちゃんと見ててやっから。そこのカウンターに腰かけて大股開いてさ……ショーみてェで気分出ンだろ?」
スワローが性悪猫のようにピジョンの脇にすべりこみ、ねっとりと囁く。
ピジョンの横髪を一筋かきあげ耳の後ろに送り、露わにした一際敏感な外耳にいたずらっぽく吐息を吹きかける。けっして直接触れず、熱っぽい言葉と息遣いだけで兄をその気にさせる。
ピジョンは棒立ちだ。
弟の悪ふざけは今にはじまったことじゃないし、思いつきに振り回されるのは慣れている。
哀しいかな、押しに弱い性分と快楽に弱い体質が災いし、正面から迫られて拒み通せたためしがない。
なんとか弟から距離をとろうと一歩あとじさり、片手で耳を守って弱弱しく呻く。
なんとも嗜虐心をそそる、かわいらしい反抗ぶりだ。
割れた窓から斜にさす月光が、上澄みの泡の弾けるシャンパンに似たピンクゴールドを清冽にきらめかせる。
「やめろよ……」
もう一押し。
スワローは右手の指を三本立て、軽く振ってみせる。
「俺がオナるかお前がオナるか二人で踊るかの三択だ。さあ選びな」
「~~究極すぎて実質一択じゃないか、ずるいぞスワロー……羞恥心がないのかお前は!」
「ああそれな、生まれる前に質に入れたきり今だに戻ってこねーな。産道から下水に流れちまったんじゃねえか?」
ピジョンが奥歯を噛んで睨んでくるも、スワローはどこ吹く風とすっとぼける。
埃っぽい廃墟で自慰するか見せ付けられるかに比べたら、唯一ダンスの|難易度《ハードル》だけ極端に低い。
のっぴきならない状況に追い込まれたら罠だとわかっていてもとびこまずにいられない。なおスワローは羞恥心が死んでいるので兄へのいやがらせのためなら労力を惜しまない。その才能をどこか別の所で使ってほしい。
ピジョンは長々とため息し、諦念の表情で返事をする。
「……踊る」
「きまり」
すかさずスワローがピジョンの細腰に手を回しリードする。
もちろんピジョンはダンスの流儀など知らない。スワローにしたところで知ってるとはおもえない。仕方ないので適当に調子を合わせる。
スワローの背中に片手を添え、もう片方の手を肩口にあてがい、音楽に乗ってゆっくり回りだす。
「スワロー……これ、楽しい?」
「兄貴は?」
「恥ずかしい……言わせるなよ、見てわかるだろ」
「へたすぎて笑える」
「う、うるさい……はじめてだからしょうがないだろ?あだっ!?」
「よそ見すんな、遅れてるぜ」
「今のわざとだろ!?」
「被害妄想、てめえがワンテンポずれてんだよ。身体にいらねー力入りすぎ」
「絶対わざと踏んだろ……」
青白く澄んだ月光が浄めるドライブインのホールにて、比較的瓦礫が少なく平坦な床を選んで、互いの身体に手を添えて支え時計回りに半周。
ピジョンの足取りは覚束ずぎこちない。
肩や腕に余分な力が入り、失敗を恐れて硬くなっている。
スワローはそんな兄の腰から手を離さず、ピジョンの足が出れば引き、引っ込めば突き入れ、互い違いに小気味よく交差させる。
女と踊った経験なら多少ある。ずぶのド素人で初心者のピジョンと比べれば回数を重ねたぶんいくらか手慣れている。
必死に付いていきながら、ピジョンがほんの少し複雑そうな顔をする。
「上手いね……だれと踊ったの?」
「あー?まあ、町のヤツらと?」
「…………」
「妬いた?」
「自意識過剰」
ピジョンがあきれ顔をし、少しだけ緊張がほぐれる。
ノイズまじりのムーディーな音楽。時々ブツ切れになり、また思い出したように再開。
自然と密着する形になり、互いの胸と胸、腰と腰をすりよせる。
胸元にぶらさがるタグの鎖が、涼しい旋律と砂金のきらめきを零す。
誰も見ていない。
ピジョンがさっき拾った人形だけが、似てるようで似てない兄弟のダンスを特等席でポツンと見物している。
ケロイドで半分爛れた顔も、薄暗い月明かりに暈された今だけは醜く思えない。
『妬いた?』
カウンターのボロ人形にいたずら半分挑発半分の流し目を送り、自分より背が低く、頼りなく痩せた兄を抱き寄せる。そのまま兄の匂いを目一杯吸い込んで―……
「いっでぇえ!?」
「ご、ごめん。痛かった?」
「てめえ、仕返しか!?」
「ちがうって、お前が急に抱き寄せるからテンポが狂って思わず……あーもうせっかくコツ掴めかけたのにじゃまするな、俺には俺にちょうどいい間合いがあるんだって、|ゴーイングマイウェイ《独り善がり》に振り回されるのはウンザリだ!」
逆ギレかよ。ひっぱたいてやろうか。そうする代わりにスワローは不敵に笑い、ピジョンの手を取って乱暴に振り回す。「わわっ!?」と叫んでよろめくピジョン。
横に傾いで流れた身体を間一髪受け止め、腕を高く上げさせる。
蹴躓いてたたらを踏む兄の腕のトンネルをくぐりぬけ、無邪気な笑いをたてる。
「言ったそばから……やったなこの、もう怒った!!」
「へえ、どうするっての?」
「こうしてこうだ!!」
皮肉っぽく笑む弟の腕を高く持ち上げ、今度は自分がトンネルをくぐる……のみならず弟の両手を握り締めたまま身体をギリギリまで引き離し一回転、右腕をくぐり左腕をくぐり、離れてはまた近付き、遠のいてはまた転がり込み、腕と膝と体中のあらゆる関節をひっきりなしに屈伸させ、全身を使った滅茶苦茶なダンスを踊る。
ホップステップジャンプの三段活用。
軽快に飛んで跳ね、爽快に風切り回るクイックステップ。
「やったなこの!」
「おいよせよ目が回る、あはははすげー残像が分裂したぞ、ニンジャかお前!?」
履き潰したスニーカーが許す限界までめまぐるしく足を入れ替え、大胆に跳ね上げる。
スワローもまねし、素晴らしい柔軟性に存分に物を言わせ、背中合わせでほぼ垂直に足を蹴り上げる。
曲のクライマックスと|同調《シンクロ》した体捌きに裾がなびき、飛び散る汗と二重奏の笑い声が高らかに爆ぜる。
二人とも笑い上戸になって、月明かりの廃墟ででたらめなダンスを踊る。
手を繋いでいる間は片割れのことが手にとるようにわかる。
目線の合図も筋肉の収縮も鼓動の高鳴りも肌の火照りも足を引いて出すタイミングも身体を躱す呼吸も、一旦コツを掴んでしまえば、手足がひとりでに波打ってアップテンポに踊りだす。
|生まれついての《ナチュラルボーン》|恋人たち《ラバーズ》のように。
心臓を半分こしたみたいに。
知らない曲。
知らない歌詞。
でも何故か心にしみる、心の一段深い場所へ届く。
ラジオを介してなお鞣された革のような張りが健在の男性の歌声が、静寂に見えざる波紋を描いて浸透し、圧倒的な共感を呼び起こす。
享楽に身を委ねて夢中で踊りながら、ピジョンは囁く。
「いい歌だね」
「そう?」
「いい歌っていうのは聴いてるひとを主役にしてくれるんだ」
「舞台端のチョイ役を主役に押し上げんのか」
「世界中のひとに、これは自分の歌だって思わせてくれるんだよ。すごいだれかの人生の脇役じゃない、自分の人生の主役でいることが正しいって思い出させてくれるんだ」
この曲は、終わりゆく少年時代を悼む曲。
少年と大人の過渡期の兄弟が、世界から忘れ去られたように孤独な|この場所《ドライブイン》で、互いの手を握り締めて踊るにふさわしい一曲だから。
俺のそばにはお前がいる。
お前のそばには俺がいる。
居場所はポイッと与えられるもんじゃねえ、だれかから与えられるのをボケッと口開けて待ってるもんでもねえ、貰えずに泣きべそたれるなんざ馬鹿の極みだ。
たとえそこが世界の端っこだろうが瓦礫だらけのゴミ溜めだろうが、コイツと繋いだ輪っかの中が俺の居場所。
俺とコイツの腕を足した分だけの何インチかの輪っか、ドーナツの穴みてえなまん丸いそこが、俺の魂が半永久的に居座る居場所だ。
コイツの手を放しさえしなければ、そこが永遠に俺の居場所だ。
余韻を持たせて曲が終わり、次のリクエストに移り変わる。
同時に大の字に寝転がり、汗みずくの胸を大きく喘がせる。
「あーーーーーしんどい、死ぬかと思った!」
「無茶しやがって……息切れてる」
「お前こそ辛そうだぞ」
「なにやってんだかな……」
「踊ろうって言いだしたのそっちじゃん」
ピジョンが砕けた口調で指摘し、床でX字にバンザイしたまま清々しく感想を述べる。
「割合たのしめた。おもいっきり踊るの、意外に気持ちいいね」
「そりゃ違うぜピジョン、運動音痴なお前のこった、ソロで踊りゃてめえの足踏ん付けてずっこけんのがオチだ。俺とペアだから、あの月の向こうまでぶっとべたんだ」
「ハイハイ」
「身体の相性だきゃホント抜群」
「言ってろばーか」
砂利と埃だらけの不潔な床に、ぐったり消耗しきって仰向けた二人の視線の先では、ミラーボールにしては安っぽいペーパームーンが輝いていた。
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