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Hush a Bye Baby
「風が吹いたら木の枝折れて赤ちゃん落ちた、ゆりかご落ちた、みぃんな落ちた……」
昼下がりの穏やかな陽射しが窓から射しこみ、フライパンの上で溶かされるバターみたいにまろやかな歌声が広がっていく。
欧米で親しまれるナーサリーライムの一曲、誰でも知ってる有名な子守唄だ。
木の上に吊るされた揺りかごですやすや眠る赤子。
風が吹いたら揺りかごも赤ん坊も、全てが落ちてしまうという不条理な内容が、不似合いにのんびりしたメロディーにのせて綴られる。
ゆったりしたマタニティドレスに身を包み、ベッドに腰かけているのはうら若い乙女。
年の頃はせいぜい十七、八。緩やかにウェーブした見事な金髪を背中にたらし、目鼻立ちの整ったあどけない顔に満ち足りた微笑みを浮かべている。
たおやかな手を張り出た腹部におき、お腹の子に子守唄を聴かせる少女の姿は、聖母子を描いた一幅の宗教画のようだ。
しかしここは教会ではなく、兎小屋のようなトレーラーハウス。
車内は手狭で、まだ解かれてない荷や洗濯してない服があたり一面に散らばっている。
床には積み木やクレヨンにミニカーなど、子供向けの玩具が至る所に転がっている。
キッチンテーブルには食べ残しの皿とコーヒーの滓が輪を作るマグカップと開封済みのシリアルの箱。シンクでは汚れた食器が水に浸かり、蛇口から間遠に滴る雫が、ご機嫌な鼻歌に調子を合わせて旋律を作る。
お世辞にも整理整頓や掃除が行き届いてるとは言えない、潔癖症の人間が見ればゴミ溜めと唾棄するかもしれない住まいだが、壁には幼児が描いたとおぼしき稚拙なクレヨンの絵が何枚もピン留めされ、微笑ましさの中に素朴なぬくもりと言い換えてもいい生活感が感じられる。
布に覆われた腹をなでる少女の顔には、芽吹き始めた母性と豊饒な幸福感が滲む。
天涯孤独の少女が長年憧れていた、悲惨な環境の中ささやかな理想として追い求めてきた、家庭的で温かい雰囲気がそこにあった。
「ママ」
暖かい日だまりに腰を落ち着けて、まだ見ぬ子をあやす少女のもとへ、ぱたぱたと小さい影が駆けてくる。
だぶだぶのTシャツ一枚を羽織り、それをずるずるひきずる男の子。
年の頃はまだ2歳程度。短い足を余らすスニーカーを突っかけており、気忙しく交互に足を出すも、案の定蹴っ躓く。
「うァあああああぁあああぁあ!」
「もうピジョンってばおばかさんね、だから言ったじゃない、そのスニーカーはあなたにはまだ早いって。もっと大きくなってからじゃないと足に合わないわよ?転んじゃうと危ないから脱ぎましょ、ね?」
「うん……」
大好きな母に窘められ、男の子は素直に頷く。が、スニーカーは脱がない。よっぼどお気に入りのようだ。
繊細なピンクゴールドの猫っ毛、優しげな目鼻立ち。少女譲りの美貌にこそ恵まれてないが、セピアが溶け込んだ赤い瞳は、生来のおっとりした気質と無垢なる感受性を宿していた。
「こっちいらっしゃい」
「うん……」
「じっとして……ほら、キレイになったわ。見違えるようなハンサムさんよ」
すべらかな頬に残る涙と洟水のあとを、マタニティドレスの裾で拭いてやる。
母が頬を擦るあいだ、男の子はぐずる素振りもなく目を瞑りじっとしていた。大変聞き分けの良い子だ。
「ピジョンはべそかいてもかわいいけど笑うともっとかわいいから、できるだけ笑っててね」
おだてにほんの少しはにかんで、赤らんだ頬を恥じるように俯き、もじもじとする。
腰の後ろで手を組み、スニーカーに突っ込んだ爪先を互い違いに組み替えて、物言いたげな上目遣いで訊く。
「あかちゃんでた?」
「そんなに早く出てこないわよ。そうねえ……あと二、三週間は待たないと」
「そっか……」
男の子が目に見えてがっかりする。
だがすぐ気を取り直し、躊躇いがちに歩み寄り、母の腹部に手をかざす。
「おしゃべりしていい?」
「いいわよ」
笑顔で促す母に自然な笑みを返し、正面に跪く。幼児特有のぽっちゃりした手で臨月の腹を抱え、そっと耳をあてる。羊水の海にまどろむ胎児の心臓の鼓動が子宮を通して鼓膜に伝わり、生命の神秘に高揚する。期待に顔輝かせて母を見上げ、息せききって畳みかける。
「男の子かな?女の子かな?」
「どっちかしら?実はママも知らないの、産まれた時のお楽しみよ。ピジョンはどっちがいい?」
「えっと……男の子だったらいっしょにかけっこする、いろんなこと教えたげる。空は青いクレヨンで塗るんだよとか、お日さまはオレンジだよとか……女の子だったらかわりにボタンとめてあげる、髪とかしてお靴はかせてあげる」
「まるでお姫様ね」
「女の子にはやさしくしなきゃいけないんだよ?」
「ママも女の子よ?」
「じゃあもっといっぱいやさしくするね」
「たのしみ!」
「でもどっちでもかわいがるよ、いっぱいぎゅーってするんだ。はやくでてこないかなあ、ピジョのあかちゃん」
母の口まねをして、舌足らずに自分の名前を呼ぶさまが愛らしい。
「ふふ、ピジョンったら!この子はママの赤ちゃん、ピジョンの赤ちゃんじゃないでしょ?この子はね、あなたの弟よ」
「おとう、と?」
「妹かもしれないけどね。でもなんとなく男の子っぽい気がするの、元気いっぱいお腹を蹴っぽるんだもの。手をあててみて」
「ほんとだ、暴れてる。だいじょうぶ、いたくない?」
「全然!元気に育っててすごく嬉しい。女の子だったらすごいお転婆さん、男の子だったらすごい腕白になるでしょうね。ピジョンはどっちでもちゃんとお世話してくれる?」
「うん、がんばる。ちゃんとお手伝いする」
男の子は頬を紅潮させて頷き、愛しくてたまらないといった笑みで母の腹に頬ずりする。
「ピジョのおとうと……」
母に教えられたその言葉を、生まれて初めて背負った重大な使命であるかの如くくりかえし顎を引く。
頬ずりだけでは足りず口付け、母の腹を絶えず蹴り上げる腕白ぶりをあやすように、括れのない服の上からなでる。
「はやく出ておいで。いっしょに遊ぼ」
「ピジョンはお兄ちゃんだから、この子のこと守ってあげてね。ママと約束よ」
母になるには若すぎる少女が微笑んで小指をさしだし、男の子は爪先立って小指を絡めてから、大事な用事を思い出して向こうへ走っていく。
スニーカーの底をぱたぱた言わせて駆け戻り、両手に押し頂いた画用紙を仰々しく献上する。
「はい、あげる」
少女は不思議そうな顔で、たったいま受け取った画用紙に目を通す。
それはクレヨンで描かれた家族の肖像。
黄色いクレヨンで爆発した髪を表現し、仲良く並んだ大小の丸のうち、大きい方を指さして説明する。
「こっちがママ。こっちがピジョ」
「ママの中の丸は……?」
「おとうと……か、いもうと」
心優しい男の子は、これから生まれてくる弟……ないし妹も、家族の集合図にちゃんと含めていた。
母を示す大きな丸の内側、一番小さい丸にはよく見ると黒い点で目鼻が打たれている。
性別すらハッキリしない、無事産まれてくるかも定かでない名もなき胎児を、たった二歳の子どもが家族と認識しているのだ。
「よく描けてるわね。将来は絵描きさんかしら?」
「えへへ……」
手放しで褒められ、男の子は照れる。
明らかにサイズの合ってない誰かの忘れ物のTシャツを羽織り、これまた寸法の大きすぎるスニーカーをひきずって、大好きな母ときっと大好きになれるだろうこれから生まれてくる弟か妹、二重に抱きしめようと両手を広げる。
この子はまるで天使だ。
神様がひとりぽっちの私にくれた贈り物、命に代えても守りたいかけがえのない家族。
「あかちゃんがきたら二番めでいいから、今は一番めにぎゅってしてくれる?」
「ピジョンはあまえんぼさんね」
遠慮がちにせがむ最愛の息子を抱きしめ返し、弛んだ胸刳りから覗く、ミルクの匂いがする素肌に顔を埋める。
子ども特有の高い体温が心地よい。
少女は深く息を吸い、ありったけの愛情をこめて心からの想いを告げる。
「大好きよピジョン」
この子は優しすぎる。だれか他のひとが傷付くより、きっと自分が傷付く方を選ぶ子だ。まだ生まれてもない赤子を優先し、大好きなママのハグは二番目でいいと言うその優しさが彼女には辛い。
少女はずっとひとりぽっちだった。
物心付いてからずっと、他人に犯され虐げられ続ける人生だった。
そんな少女がお腹を痛めて産み落とした最初の息子は、彼女の願い通りの、いや、それを遥かに上回る素晴らしい子に育ってくれた。
こんな自分にはもったいないほどいい子で、その現実が時々どうしようもなく苦しくなる。
私がママじゃなければ、この子にもっとたくさんのものをあげられたのかしら。
もっと幸せにしてあげられたのかしら。
モノが見苦しくとっ散らかった狭苦しいトレーラーハウス、お客さんの忘れ物かおさがりのシャツとスニーカー、毎日間に合わせのシリアルの朝食。
その全部に愛着があるし、小さくても楽しい我が家はけっして嫌いじゃないけれど、もし私がこの子のママじゃなければ、この子はもっと素晴らしい人生を歩めるんじゃないか考えないといえば嘘になる。
ずっと家族が欲しかった。
全身全霊で愛し愛される存在が欲しかった。
「ピジョもだよ、ママ」
お馴染みのスキンシップに応じ、背伸びして母をハグする。
ピンクゴールドの猫っ毛が顔をくすぐり、少女のような母親は、ますますもって腕の力を強めて息子を抱き締める。
拍子に袖がめくれ、肘の窪みに打たれた古い注射痕が露わとなる。
少女の顔が一瞬曇り、優美な睫毛が飾る赤錆の目に過去の傷口が開くも、幼い息子に見られないよう素早く袖をおろす。
もうすぐ生まれてくる二人目。
新しい家族が増える。
不安なことばかりだけれど、だれより優しいこの子がいてくれるなら、私はまたママになるのを怖がらずにいられる。
この子は新しい家族が増えるのを本当に待ち侘びて、朝起きるとまず真っ先に、夜寝る前は必ず「赤ちゃんでた?」と聞きにくる。その度に彼女は「まだよピジョン、その時は一番に教えるから」と笑っていなし、残念そうな息子の唇に人さし指をあてるのだ。
おはようのキスは母の右頬とお腹に二人分、おやすみのキスも二人分、毎日欠かさずする。
この子はきっと、世界一のお兄ちゃんになる。
今度私が産む子は、きっと世界一幸せな弟か妹になる。
この子たちがいればもう何も怖くない、世界を敵に回して無敵になれるきょうだいだ。
「ねえ、よく聞いてね。世界一のあなたの味方ができるのよ」
一途な願いを込めて毎日そう言い聞かせたせいか、長男はすっかりその気になり、お兄ちゃんの気構えも新たに家族の誕生を心待ちにしている。
身重で苦しい母の分まで皿洗いやフォークを並べるお手伝いに精をだし、褒められたら喜びたいのを我慢し、「だっておにいちゃんだもんね」と大人ぶって胸を反らす。
この子が余らせるシャツとスニーカーがぴったりくる日は、意外と近いかもしれない。
天候が荒れていた。外では嵐が荒れ狂っていた。
夜を引き裂く雷に怯え、お気に入りのタオルケットを握り締めてベッドにもぐりこんだ息子を、彼女は快く迎え入れた。
日毎に張ってきたお腹に障らないよう慎重に姿勢を調整、体を横にする。
二人で寝るには狭い安普請のベッドも、ぴったり寄り添えば何とか収まる。ぐずって母の脇に滑り込んだ息子は、ネグリジェの裾を掴んだまま安心しきった寝息をたてている。
予定日はまだ二週間先だ。けれどももうすぐだ。出産の兆候に備え、車は町のすぐ近くに停めている。信用できる助産師がいる、診療所の場所も調べてある。
小さい子供と妊婦の二人暮らしは何かと不便だが、助けてくれる人は大勢いる。レモネードのピッチャーを差し入れてくれる近所のおばさん、「うちのガキのおさがりで悪いけどよ、もう大きくなっちまったから」とオモチャをピジョンにくれるお客さん。ピジョンお気に入りのスニーカーはだれの忘れ物だったかしら……いけない、忘れちゃった。ちゃんとお礼を言っとくんだったわ。
ピジョンは町の人やお客さんにも可愛がられている。最初はどうなることか懸念したけど、やってみると意外と上手くいった。
やっぱりこの世界は、そう悪いところじゃないのかもしれない。
もしまたあの占い師のお婆さんに会ったらそう言ってあげよう。
少女はごく限られた狭い世界しか知らずにきて、試行錯誤で子育てに励む日々で、いかに自分が無知で世間知らずだったか思い知らされた。
『誰が食わせてやってると思ってんだ!』
『テメエのような頭と股のユルい小娘が一人でやってけるか、これ以上手ェ焼かせんならベッドに縛り付けても客とらせるよ!ただ寝っ転がってるだけでおまんまが食える、こんな楽な商売ほかにあるかい?こっちは足切り落としたってイイんだ、アソコさえ使えりゃ稼げっからね!それとも目ェ潰すかい、めくらじゃどこへも行けないもんね!』
逃げ出したことは後悔してない。あのままあそこにいたら不幸になるだけだ。
肘の内側の微細な傷痕が疼いた気がして、無意識に手で覆う。
ピジョンと一緒ならどこへだって行ける。
あの日占い師さんと見たタンブルウィードみたいに、世界のはでまでも転がっていける。
「私の|かわいい小鳩ちゃん《リトルピジョン》……ママのところにきてくれて、ありがとうね」
健やかに熟睡する息子の額にキスをし、もうすぐ生まれる子を挟んで川の字になる。
過去から響く呪詛と怨嗟、憎悪の滾る罵倒と怒号……
稲妻と共にフラッシュバックするおぞましい追憶に耳を塞いで丸まりたくなるのを辛うじて堪え、代わりに息子をかき抱く。
窓の外では暴風が吹き荒れ、引っぺがされた屋根の一部や木の枝が空高く巻き上げられ飛んでいく。
最初は気付かなかった。
寄り添う息子のぬくもりに安らぎ、自らも微睡みを揺蕩って、荒天の騒音に紛れる不吉な兆候を見落としていた。
「!?なに……」
甲高い音をたて一石を投じられた窓が破砕。
用心深くロックされたドアがだしぬけに歪み、ひしゃげ、バールのようなものの先端を強引に噛まされこじ開けられる。
強盗?
咄嗟に息子を庇ってあとじさる。
目覚めた息子が緩慢に瞬き、寝癖の付いた寝ぼけ顔で母に抱かれるも、開け放たれたドアから吹き込む木の葉と礫まじりの暴風に身を強張らせる。
「ママ……?」
「逃げて!!」
悲鳴じみた声が喉から迸る。
咄嗟に息子だけでも逃がそうと判断、懐に抱きこんで解き放てば、ベッドから転がり落ちてどこかを打ったのか派手に泣く。
「そんなことしてる場合じゃないでしょ、早く立って走って、男の子なんだからめそめそしないの!どこでもいい、間に合わないなら隠れて……」
お腹が苦しい。動き辛い。
片手で腹部を抱え、もう片方の手ですっかりパニックに陥って泣き喚く息子を急き立て、タオルケットですっぽり覆ってベッドの下に隠そうとする少女に上背のある影が迫る。
ドアをぶち破り、土足で殴りこんだ侵入者が、バールのようなものをひっさげて大股にやってくる。
「やーっと見付けた」
かくれんぼの終了を告げるような、気怠い残忍さ含む陽気な声が、少女を絶望の底に突き落とす。
「こんなとこにいやがったのか、めちゃくちゃさがしまくったぜ。あっちの街、こっちの街を行ったり来たり……トレーラーハウスを転がす子連れの妊婦なんてそうそういねーから目立ちまくりだ」
侵入者の背後で稲妻が光り、雷が連続して空を走る。
不吉な闇と光が縦横斜めにめまぐるしく錯綜し、人影が窓ガラスの破片を踏みしだく。
歩みがてら勢い良くバールを振り抜き、少女と男の子が築き上げたささやかな幸せを、手あたり次第に破壊する。
壁を殴り付け、モノを薙ぎ払い、ピジョンのオモチャを靴裏で踏んで蹴散らす。
雷鳴と錯綜する轟音が爆ぜる都度ドアや壁があっけなく陥没、枕元に貼られたピジョンの絵をバールの先端が穿って引き裂く。
影は男だ。
少女はピジョンを守るよう懐に抱き、無造作に縺れた金髪を振り乱して牽制する。
「連れ戻しにきたの……?」
「そうだと言ったら?」
「いやよ……絶対帰らない」
母の腕からピジョンの全身へと震えが伝わる。嵐の晩に突如として乱入した男は、水浸しの全身を拭いもせず、床に唾を吐き捨てる。
「舐めんなよクソアマ」
「あッ、」
男の腕が振りかざされ、少女の髪を鷲掴む。
次の瞬間、力ずくで引き剥がされた。
男は少女の髪を掴んで壁へ突き飛ばし、それを追おうとしたピジョンの襟首を、猫の子を間引くみたいに摘まみ上げる。
「ママ!やだ、ママ、ママ、ママあ!!」
宙吊りにされ暴れる子どもを見下ろす目が、嗜虐の愉悦に冷たく底光りする。
風が凶暴に唸っている。
闇が吠えている。
世界の関節が外れてしまった。
「おねがい……手を出さないで……」
突き飛ばされた拍子に壁に激突、額を打って軽く脳震盪を起こした母が弱弱しくもがく。
逆光に顔を塗り潰された男は、吠え猛る嵐の激しさにもてんで無関心な素振りで、片手にぶらさげたピジョンの頬を張る。
「うるせェよ、興ざめだ」
頬に衝撃が炸裂、それが焼けるような痛みに変わって火が付いたように泣く。
人質にとられた我が子を取り戻そうと喘ぐ少女、そんな少女に見せ付けるように男が懐から出したのはガムテープ。少女は苦痛と悲哀に顔を歪め、大きなお腹を庇うようにして男の足元へ這っていく。
「帰ってよ……いますぐでてって……ここは私達の家よ。いま助けてあげるからねピジョン、おねがい泣かないで」
焦燥に発狂せんばかりの胸中で切実に懇願し、醜く崩れた泣き笑いを卑屈な媚で痙攣させ、ぶらさげられた息子に手を伸ばす。
男がガムテープを切りピジョンの口を塞ぐ。みるみる顔が真っ赤に腫れていく。
少女が声にならない声で叫び駆け寄ろうとするも男に突き飛ばされ倒れ込む、その間もピジョンは泣き続ける。突然口を塞がれ息が吸えず、吐くことすら許されず、大粒の涙で潤んだ目だけを見開いて「う゛ーッう゛ーッ」と何かの発作のように唸り続ける。
「私の子になにすんのよ!!」
男が手首に弾みを付けピジョンを放り捨てる。可愛い息子がボールみたいに跳ねて転がっていく。我を忘れて助け起こそうとする少女の髪を引き倒し、跨る。
「腹ボテの分際で威勢がいいな」
「ピジョン、大丈夫よピジョン、怖くないから。ね、そんな泣かないで?ママは大丈夫だから……全部悪い夢よ、目が覚めたら終わってるわ……」
少女は男を見ず我が子にだけ語りかける。
ガムテープを貼り付けられ、壊れた人形かゴミみたいに床に転がされたピジョンへと、虚勢を振り絞った笑みを繕い、怖くないわよと唱え続ける。ピジョンは号泣する。自力でテープを剥がす知恵もないのか……否、二歳児にそれを期待するのは酷だ。
泣き喚く子どもをせめても安心させようと、自分も半泣きになりながら笑みを上塗りする少女に、男がそっけなく聞く。
「あのクソ神父が手引きしたのか?」
「……どうでもいいでしょ」
「偽善野郎が……さんざんヤキ入れてやったのに。聖職者をたらしこむなんて大した淫売だ」
「あの人に何したの」
「ハッ、どうでもいいだろ。それよかクスリはやめれたのかよ、ええ?ガキにも覚せい剤溶かしたミルク飲ませてんじゃねーの、あの泣きっぷりはフツーじゃねえ」
「そんなことしてない。あの子は関係ない」
「どうだかな、てめえの母乳にも成分は溶け込んでんだぜ。ジャンキーは死ぬまでジャンキーだ」
男が狂ったように高笑いし、服の懐から白い粉末の入った透明な小袋と、細身の注射器を取り出す。
稲妻瞬く暗闇に沈む少女の顔が、絶望と恐怖の絶頂で引き攣る。
「てめえは一番の稼ぎ頭だ、手放すにゃちと惜しい。ヤクで頭ぶっ飛んでもトンズラ許すよかマシだよ。ほらアレさ、連中はメンツにこだわるんだ。小便くせえ小娘に後ろ足で砂かけられたまんま黙っとくはずねーだろ?気の毒に、この先死ぬまでヤク漬けで飼い殺しだ。日の差さねェ暗闇に監禁されて、ガタがくるまで変態の相手だ」
「やめて……」
「てめえが悪いんだぜ、何とち狂ったんだか逃げ出して……惚れたオトコでもできたのか?いい車じゃねーか、いくらだ?オムツのガキ連れて腹ボテの逃避行、なかなかドラマチックな筋立てだな。頭のワリィ勘違い女がいかにもやりそうなこった、初潮くる前から前と後ろにオトコ咥えこんでた売女がンな幸せ描けると本気で思ってたのかよ?」
床に蹲って泣き喚くピジョンの眼前、ベッドに少女を張り倒した男が笑い、嗤い、笑い、少女が嗚咽し、華奢な細腕を突っ張って抵抗するも無力で、引っ掻こうと立てた指はまとめて払われ、嫌々するように首を振り、恥もなにもかもかなぐり捨てて懇願する。
「お願いそれだけはやめて、お腹に赤ちゃんがいるの……」
「で?」
男が翳した注射器が、剥き出しにされた少女の腕を滑り、青く浮き出た太い血管に擬される。
「これ以上ごちゃごちゃぬかすと殴るぞ」
どこを、とは聞かなかった。聞けなかった。この期に及んでわかりきった質問だ。
冷たい金属の針が皮膚の薄い部分を探り当て、少女の喉が萎む。
ピジョンは目を見開いて、一部始終を焼き付ける。少女が激しく暴れ、めちゃくちゃに足を蹴り上げる。
ネグリジェがあられもなく捲れ上がり、出産を間近に控え膨らんだ下腹が暴かれる。
「もうすぐ産まれるのよ!!」
ヒステリックに叫ぶ少女の血管に鋭利な針先をツプと押し込み、退屈そうに嘯く。
「俺のガキなら何したっていいだろ」
そして、続ける。
「聞き分けねーならアレでヤる」
何を言ってるかわからない。その言葉の意味を理解に足るにはピジョンはあまりに幼く無垢すぎた。
いやらしくニヤケた男がピジョンに顎をしゃくり、再び母へと向き直る。
「産み月の腹ボテとよちよち歩きのガキ、どっちで試したっていいんだぜ」
どっちもって選択肢もあるよな、と場違いに明るく付け加える。
心が砕ける音が聞こえた。
あるいはそれは風に飛ばされた枝が激突して、窓ガラスが砕ける音だったのかもしれない。ピジョンにはわからない。
注射器が押し込まれ、腕の静脈に何かが注入され、少女が絶叫する。ピジョンがこれまでの短い人生で聞いた中で最も絶望的で、苦痛に引き裂かれた叫び。
男がじれったげにパンティーを毟り取り、脚を己の肩にのせ高く上げさせ、抉り込むように腰を叩き付ける。
ズレたブラジャーから零れでた、張り詰めた乳房を荒々しく揉みしだき、乳首を抓り、続けざま腰を打ち込む。のしかかる体に腹を圧迫され、最初こそ曳き潰されるように苦しげに喘いでたが、次第に嗚咽が高まって潤いだす「ああッひあッや、ああッあァっあぅあ゛ッ」ピジョンの知らない母の姿、母の声。
乱暴に揺すり立てられ、髪を振り乱してよがり狂い、乳房を捏ね回される悦びに恍惚と涎をたらし、陰毛が生えた股はしとどに濡れそぼり、大量の体液がシーツに濃い染みを広げる。
男に犯された母が背中を撓らせ大きく仰け反り、繋がった部分がぐちゃぐちゃ淫らな音をたて、正常位に飽きたら後ろ向きに尻へとねじこむ。
後ろ髪を掴んで四つん這いの姿勢をとらせ、そこへ怒張を叩き付ける。
「あッやァ、あふァっ、もうやっ、おねがい、この子だけは……見ちゃだめ、ピジョン……」
都合二回犯された。アナルを含めれば三回だ。
少女はすっかり牝犬だった。
ピジョンの股間が湿り、仄白く湯気が立ち上る。恐怖の絶頂で失禁したのだ。
指一本動かせず、瞬きすら忘れ、凍り付いた無表情で、優しく若く美しい母が凌辱される一部始終を目撃する。
嵐が去った。
男が出ていったあと少女がまずしたのは、ボロ切れ同然の服をかき集めることでも毛布を羽織ることでもなく、窒息寸前の子供へ駆け寄ってガムテープを剥がしてやることだった。
おかげでピジョンは、男の白濁と無数の歯型、痛々しい鬱血痕に塗れた母の裸身を目の当たりにする羽目になった。
「おねがい泣かないで、大丈夫だから……怖い人はもういないから……」
「ママ、ママ……」
「怖かったわねピジョン、もう大丈夫よ。よく頑張ったわね、えらいわね、ガマンしてとってもおりこうさんよ……おもらししちゃったの?」
ピジョンがこくんと頷き、「気にしないで、大丈夫よ。あとでパンツ替えましょ」と、洟水と涙と鼻血に塗れた顔に微笑みを作る。
「もう今夜はだれもこないから……ぐっすりおねんねしましょ。ぜんぶ悪い夢、朝になれば元通りよ。ピジョンの大好きなパンケーキ作ったげる。ピジョンはママのパンケーキ好きよね?ね……」
歯の根の合わない震え声で自分に言い聞かせるようピジョンに縋り付き、肩を戦慄かせ嗚咽する母に、そっと手をやる。
「あのひとにいじめられた……だいじょうぶ?」
ガムテープを剥がされた頬と口がひりひりする。
ピジョンは好きなだけしゃくりあげてから、母の様子がおかしいことに気付く。
さっきから震えが止まらない。口の端に白濁した泡が固まっている。涙に濡れた瞼は変に痙攣し、顔色が真っ青だ。肘と膝で這いずってきた床には、男が出した精液と愛液が入り混じり透明な筋を引いている。
あるいはそれは、破水の兆候。下肢を伝い漏れだした羊水の一部か。
絵本の人魚姫みたいだ。
ママは人魚姫だったんだ。だから陸に上がって痛がってるんだ。
「守れなくて、ごめんね」
自分を抱き締め泣き崩れる母。涙と洟水と鼻血で悲惨に腫れたその顔を、余った裾で拭き拭きピジョンが慰める。
「女の子にはやさしくしなきゃいけないんだよ」
「ええそうね……本当にそうね」
不規則に上下する薄い背中に小さな手を添え、もう片方の手でせりだした腹に触れる。
「こわくない。こわくない」
母とお腹の中の赤ん坊、二人を慰めるように呟き、おずおずとさすってやる。
「Hush-a-by baby, On the tree top……」
ゆるやかに起伏する母のお腹に口をあて、衣擦れに紛れて消えそうにかすかな声で、たどたどしい子守唄を口ずさむ。
安心を吹き込んで、痛みと恐怖を吸いだそうとするみたいに。
人におしゃべりを止めて静かにするように制止する際の「Hush」は、赤ん坊が泣き止むようあやす際にも使われる。
肘の内側に赤く咲いた真新しい注射痕、覚せい剤の後遺症で絶え間なく震える体を自ずと息子に凭せ、口を開く。
「ピジョン……おねがいがあるの」
「なあに」
「この子がどんな子でも、愛してくれる?」
母体は胎盤を介して胎児と繋がっている。
強姦される前に打たれた覚せい剤が、胎児にどんな影響を及ぼすかわからない。
もしどんな子でも私はたぶん愛せるし、ピジョンにも愛してほしいけど、それができるかはわからない。
この子に辛すぎる重荷を背負わせるかもしれない。
母になろうとしてなりきれず、お腹を痛めた我が子の前で牝犬の痴態を思うさま晒した少女は、縋るように切羽詰まった目で見詰める。
ピジョンは少し考えるように沈黙し、何かを誓うよう母の腹に片手をあてがい、囁きかける。
「ピジョとママのあかちゃん」
ピジョンのあかちゃんじゃないのよと、今度ばかりは訂正しない。
たった二年しか生きてない子どもがどうしてこんなに優しい顔ができるのか、愛情深い眼差しができるのか、少女にはわからない。
「……ピジョのおとうと」
あるいはいもうと。
どちらでも、きっと愛せるにちがいない。
回らない口で、舌足らずな喋り方で。
裸にひん剥かれた腹を抱き締めて跪き、まだ生まれてもないのに悪意と暴力にさらされ、子宮の暗闇で縮こまった赤ん坊にキスをする。
「いっぱい大好きになってあげるから、はやくでておいで」
たとえここが地獄でも。
赤ん坊が悪魔でも。
生まれる前から人生に絶望するのは早すぎる。
ここは地獄かもしれないけど、この子がいてくれるから地獄じゃない。
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