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fingerheart
目が覚めると泣いていた。
「あれ……?」
手探りで頬を拭けば指にぬるい水滴が付着する。なめればほのかにしょっぱい……涙だ。
暗闇に沈む見慣れた低い天井、側面の壁には家族で撮った写真や、行く先々で拾っては死んでいったペットの絵が貼られている。枕元には漫画本やペーパーバックの小説が積み重ねられ、半ば崩れて床までも浸蝕し足の踏み場がない。
「…………なんで泣いてるんだ?」
夢の内容はよく思い出せない。妙にザラザラとリアルな手ざわりだけが印象に残っている。
なのに何故か涙があふれて止まらない。涙腺が決壊したように、あとからあとから湧いてくる。心の一番深い淵、知覚できない無意識の領域から無尽蔵に汲み上げられる。
不思議そうに瞬き、寝起き特有のボンヤリした無表情で涙が滴るてのひらを見詰める。
極端な緩慢さで頬を擦り、袖にしみた雫を見る。
トレーラーハウスの中は静かだ。時刻は深夜、夜明けはまだ遠い。母は向こうで熟睡しているのか、規則正しい寝息が闇を伝ってくる。
起きた途端、それまで見ていた夢を忘れてしまった。なのに酷く落ち着かない。悲哀とも喪失感とも付かぬ虚無が胸にぽっかり巣食い、世界に一人ぽっちになったような、膨大な不安に襲われる。
母はすぐ近くにいる。声をかければ返事をしてくれるかもしれない。本来夜は娼婦にとってかき入れ時だが、最近は客をとることも少ない。母の体調があまりよくないのは薄々勘付いている。
若い頃無茶しすぎたのねと母は笑い、少し貯金ができたから暫くは休めるとも言ったが、子どもたちに心配かけまいとした強がりか本当かはわからない。
ここは静かすぎる。中途半端な時間に起きたせいで目が冴えて二度寝できない。
毛布を羽織って寝返りを打ち、反対側を向く。弟がいた。こっちに背中を向けて寝ている。規則正しく上下する肩、気持ちよさそうに安らいだ呼吸……
そんな当たり前のことに途方もなく安心する。
手の届く距離にスワローがいる、これは現実だ。よく眠っている弟を起こさないよう指先を伸ばし、頭の芯を鈍らせる夢の残滓を反芻する。
悪夢の輪郭は曖昧にぼやけており断片しか像を結ばない。稲妻、影、悲鳴……とても怖かった。
嵐が荒れ狂う中、子ども返りしたピジョンは泣き狂っていた。
口を何かベタベタしたモノで塞がれてひどく息苦しく、それがパニックを増長した。目が覚めた瞬間、ただの夢でよかったと心の底から安堵した。もう少し小さかったら漏らしていたかもしれない。
「スワロー……寝てる?」
一応、声をかける。
起きててほしいのか、寝たままでいてほしいのか、自分でもよくわからない。ブラックホールの磁力を内包する静寂の重圧に耐えかねて、とにかく呼びかけずにいられなかった。
殆ど毎晩ちょっかいをかけてくる弟は、今夜に限って珍しく熟睡している。起こしちゃ可哀想だ。
起きてる時は下品なことしか言わずに憎たらしいけど、寝てる時はやっぱり可愛い。時間が昔に巻き戻ったみたいだ。無意識に指を伸ばし、弟の首に這う鎖に触れる。
「……ん……」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「~~~~~ンだよも―――――……せっかく夢ン中で南半球買い占めてヌーディストビーチで石油掘ってたのに」
「いろいろごっちゃになってない、それ?」
スワローは寝起きが悪い。機嫌を損ねてベッドから蹴落とされた経験は一度や二度じゃない。
ふやけきった生あくびをし、荒っぽく毛布を被って寝直そうとするも、ふと悪戯心をだして振り向く。
「……お前から誘ってくるなんてめずらしーじゃん、欲求不満?」
「誘っ……てない、ヘンな時間に起きたから寝付けなくてさ……」
「ふーん。……なんか夢見た?」
「え?」
「シーツぐしょ濡れ。すげー汗……気付いてねーの?」
指摘され、体の下をまさぐりハッとする。大量の寝汗を吸い、湿ったシーツが気持ち悪い。
「ひょっとして出しちまった?」
「俺の下半身事情はほっとけ。夢精の周期まで管理されたくない」
憮然と言い放ち、背中を向けて毛布を羽織ろうとして……
すぐそばにいるスワローを遠くに感じ、また暗闇に手をのべる。
視線の先でもがく手がやけにふっくら丸い子どものそれと重なり、現実と残像が錯綜する。
「スワロー、あのさ」
心臓が早鐘を打ち、喉が干上がる。ピジョンは手を伸ばし、引っ込め、またしても突き出し、何度も迷って引き返してから、おずおずと弟の肩を掴む。
今夜の自分は正気の沙汰じゃない。犯されるかもしれないのを覚悟の上で、ケダモノのような弟に添い寝している。
わざわざ自分から地雷原に近付いて、しなやかな筋肉が浮き出た背中にぴたりと寄り添い、すでに兄の背丈を追い越した体にぶきっちょに腕を回す。
ずっと前もこうしたことがある気がする。
コイツがまだ小さく可愛いかった頃は、一緒に抱っこしたまま寝かし付けたのだ。
「……守れなくて、ごめん」
「……は?」
口からポロリと滑り出た言葉に、スワローが盛大に気色ばむ。
纏わり付く腕をうざったげに振り払い、それでも諦めず絡んでくるのを邪険に肘で突きのけ、苛立たしげに吐き捨てる。
「ンだそれ、いつの話だよ?」
「わ、わかんない……なんか突然言いたくなって」
「おセンチな夢見てナイーブになってんじゃねえの、きっしょくわりぃ」
「そうかも……たぶん」
あんなこと本当はなかった。万一あったとしても、まだ赤ん坊も同然だった俺が覚えているはずない。
アレは夢、ただの悪趣味でおぞましい散文的な絵空事だ。実際スワローは元気だし、殺しても死なないくらい健康だし、母さんは幸せそうに笑っている。
ピジョンはスワローの背中を抱き締め、唐突に頭に浮かんだ疑問を述べる。
「ねえ……スワローは父さんに会いたい?」
「だれの。お前の?」
「お前のだよ。なんで俺の父さんに会いたがるのさ」
「どの程度似てっか興味あんじゃん。お前あんま母さんに似てねえし、てことはそっちの血だろ?」
兄弟はそれぞれの父親を知らない。
母も進んで話そうとはせず、詳しく突っ込めばそれとなくはぐらかされるのでなんとなく聞かなくなった。
スワローが半身をよじり、ピジョンと顔を突き合わせる格好で猫っ毛を一束摘まむ。
「母さんとも俺とも似てねェ赤みがかった金髪……親父は赤毛なんじゃね?」
「そうかな……俺はお前の髪がうらやましい。太陽の下で見るとすごくきれいだ」
「それをゆーならお前も……カオはまあどうってことねーけど、髪の色は悪くねーよ」
「スワローが褒めるなんてめずらしい……さては寝ぼけてるな?」
返事代わりにあくびを一回、うとうとまどろむ。
「てめえの親父がてめえみたいにドジでマヌケでおっちょこちょいで、道端におっこちてる飴玉や玉蜀黍をひょいひょい拾い食いするダバダバ駄バトか気になんじゃん」
「ちょっと待て訂正しろ、俺の父さんは絶対拾い食いなんかしないぞ、会ったことないけど多分フツーにいいひとだ!」
「今頃腹くだして死んでるかもな。意地汚さは親父譲りだ」
むきになって前言撤回を要求する兄を嘲笑い、軽く足を蹴っぽる。
やっぱり憎たらしい。ちょっとでもカワイイとかほだされかけた俺が馬鹿だった、いい加減学習しろよ。
深呼吸でこみ上げる怒りをおさえ、真剣な面持ちに改めて再び。
「……自分の父さんがどんな人か気にならない?」
母譲りの瞳に切迫した光を宿し、不安と緊張の表情で凝視を注ぐ兄に、スワローは「別に」とそっけなく肩を竦める。
そして大人びて冷めた調子で付け足す。
「俺の親父ならどーせろくでもねーのだろ」
自虐ではない。
自嘲ですらない。
ただただシビアな達観に支配され、ドライな無関心に徹する声音。
ピジョンは何も言えなかった。
言ってやれなかった。
「……スワロー……」
「お前と母さんで間に合ってる。手一杯だ」
ピジョンの耳にはそれが、兄と母がいれば十分だと都合よく訳されて聞こえた。
スワローの世界には、もとから兄と母しかいないのだ。
ピジョンの胸が理由もなく疼き、ずっと昔そうしていたことがあるかのように弟を強く抱きしめる。
皮を剥かれた夜、コイツをバケモノだと思った。
俺のかわいい弟はもうどこにもいなくなってしまったと嘆き、身勝手に絶望した。
でも違った。
「……あのさ……マジでどうしたの、積極的じゃん。寝ぼけてンの?気持ちわりーから離れろよ」
「やだ。寝るまでこうしてる」
「ブチ犯すぞ」
「それはやだ」
「やだやだぐずってんじゃねーぞ処女ビッチが、どーせ今もおっ勃ててんだろ」
凶悪な形相で毒突いて股間を揉みしだく手をあえて払いのけず、持て余した火照りを吸いだすように前髪をかきあげ、額にキス。
予想外の甘やかしに調子を狂わされたか、勢いを挫かれたスワローが露骨に舌を打ち、ピジョンをくりかえし蹴飛ばす。ピジョンはめげずへこたれず毛布の中で弟の手をまさぐって、しっかり繋ぐ。
「おねがい……寝るまでこうしてて……」
「~~~~あのさぁ!」
「かわいい……スワロー……」
もう少しでキレそうな弟にもっとキツく手を絡め、口元へ近付けたてのひらの、心臓に一番近い血管が通る薬指の根元にキスをする。
「俺のスワローは、かわいくなくなってもかわいいよ」
俺の弟はバケモノかもしれないし、もっというと悪魔かもしれないけど、それだって別にかまわない。
それだって別に愛せる。
薬指は魔法の指。
心臓に達する愛情血管があると信心され、外国では心臓指と安直な名前で呼ばれている。
夜明けがまだ遠い闇の中、急に大人しくなったスワローがどんな顔をしてるかは判然としないが、薬指の根に接吻するピジョンの右瞼に一瞬唇が触れ、すぐまた遠ざかっていく。
「子守唄までサービスしねえぞ。とっとと寝ろ、クソ兄貴」
おやすみスワローと心の中で呟き、今度こそピジョンは朝まで覚めない眠りに落ちた。
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