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第3話

家が旅館をやってる、というと皆決まって俺のことをお金持ちと呼んだ。 跡取りじゃん、とか、いつかは継ぐんでしょ、とか、そういう話ばっかりだった。 実際、全然そんなことないのに。 俺の家は、自分で言うのは恥ずかしいけど、このあたりじゃ知らない人がいないくらい有名な旅館で、 雑誌やテレビの取材も来たことがある。 商店街の福引でこの旅館の宿泊券を引き当て、客として来ていた俺のお母さんは、 当時見習いとして働いていた父親と出会い 父親からの猛烈なアプローチで結婚を決意した。 周りからはあんな素敵な旅館のお嫁になれるなんて、と言われとても羨ましく思われていたらしい。 でも、二人を夫婦と認めるための婚姻届は永遠の愛を紡いでいくための証明ではなく、お母さんから自由を奪う悪魔の契約書だった。 まず最初に、お母さんは父親の両親、仲居さん、板前さん、その他旅館の経営に関わる人達に囲まれた。 そこでお母さんは過去の職歴や学歴を洗いざらい話したらしい。この家に嫁ぐということは、 いずれなるであろう若女将としての修行をするということだから、その覚悟があるのか品定めをされていたのだ。 細身で、病的に色白なお母さんを見た周りの人たちは、本当にお前に旅館の仕事が出来るのかと言いたげだった。 それがお母さんの負けん気に火をつけたのだ。 お母さんは一見か弱そうだけど、一度やると決めたことは槍が降ろうが嵐が来ようがやりとげる、 鋼のような精神の持ち主だった。 お客さんの前で先輩に怒られても、殺人的なスケジュールに追われても、無理な注文をお客さんから言い渡されて理不尽なクレームを付けられても、 絶対に泣かなかった。 「お客様は神様」という精神は、お母さんの細胞の奥底に入墨みたいに刻まれていた。 お母さんの事をナメていた人達も次第にその仕事ぶりを認め始め、気が付いたらお母さんはベテランの人達と遜色ないレベルになっていた。 その頃父親が何をしてたのか、知るのはもう少し後になる。 俺を妊娠してからも、出産ギリギリまで働いて、周りからいい加減休んだほうがいいと言われてやっと産休に入った。出産後も早く働きたいと先生に相談し、たったの3ヶ月で職場に復帰した。 周囲はもっとゆっくりしなきゃと言いつつも、すでに旅館の大きな歯車になっていたお母さんが早く戻ってくることを心のどこかで期待していた。 お母さんはいつも俺のことをおんぶしたまま働いていて、旅館に来る年配のお客さんは、可愛い赤ちゃんねぇと俺を見て喜んでいたらしい。 そんなお母さんに育てられた俺は、誰に言われずとも旅館の手伝いをするようになった。 庭の草をむしったり、お皿を洗ったり運んだり簡単なことからはじめ、次第に部屋の掃除なんかもするようになった。それでお母さんが「ありがとう」と笑ってくれることが、嬉しかった。 お母さんはどんなに忙しくても、俺にかまってくれる時間を作ってくれた。 帳簿をつけ終わったところを見計らって、お母さんの背中にしがみつくと、 「ゆずちゃん、今日も沢山お手伝いしてくれてありがとう」と抱っこしてくれた。「お誕生日は何が欲しい?ゆずちゃんが欲しいもの、なんでも買ってあげるよ」お母さんは俺の背中を優しくとんとん、と叩きながら言う。 「…だっこ」「え?」「抱っこがいい」本心だった。流行りのおもちゃよりも、お母さんに一日中くっついていられる時間の方が欲しかった。 家族連れがやってきて、俺と同じくらいの子が親に甘えているのを見ると、羨ましくてしょうがなかった。でも、旅館の中でありとあらゆる仕事をこなして忙しそうにしているお母さんに、抱っこしてとねだることは禁断のおねだりだと思っていた。いつもなら皿洗いや掃除で塞がっているお母さんの両手を、自分が独占している事が、俺は嬉しくて仕方なかった。 「ゆずちゃんは、もっとわがままになっていいんだよ」お母さんはいつも俺にそういった。 こうしてお母さんの腕の中でうとうと眠れることが、俺にとっては一番の贅沢だったから、これ以上何を望んだらいいのかが、分からなかった。 「ねぇ、お父さんっていつも何してるの?」 皿洗いをしながら、仲のいい修行中の板前さんの義明(よしあき)さんに聞いてみた。 夏休み、家族連れが連日やってきて、猫の手も借りたいくらいてんやわんやなのに父親は旅館のどこにもいないのだ。 「あ〜、あれでしょ、どうせ」義明さんはため息をつきながら、右手を何かを掴むような形にして、2、3回ひねって動かす。 「それなに?」「パチンコ。あいつ、昔っからギャンブルに目がないんだよ。あのバカ、若い頃から仕事の合間縫ってパチンコしに行ってたんだぞ。昼だろうが夜だろうがギャンブル三昧だよ、まったく」最後に父親の姿を見たのは三日前の夜だった。 乱暴に玄関を開けて帰ってくるから、寝ていてもすぐわかる。 苛立ったようになにかぶつぶつ呟きながら、自室へとこもっていく。 その間もお母さんはせわしなく働いていた。 「おじいちゃんとおばあちゃんはなんで怒らないの?」 「怒れないんだよ、あの人たちは。一人息子が可愛くて仕方ないんだから。俺を含めた周りの人間がチクっても息子がそんな事するわけないとか言っちゃってさ」義明さんは、子供相手にしてはいけないような話も俺に話した。 俺はむしろ、それが嬉しかった。皆が過剰にオブラートに包むような事も嘘偽りなく話す義明さんは、俺にとっては貴重な存在だったのだ。 「お前はお母さんに似てほんとによかったな」義明さんはそう言って俺の頭を撫でる。小さい頃から色んな人に言われてきたことだった。 鼓膜にこびりついたこの言葉を、嬉しいと思っているのかそうじゃないのか、自分でもよくわからなかった。 「どんな時も、笑っていなさい。感謝をしなさい。そうしたら、自然にみんながあなたに優しくしてくれるから」 お母さんはおまじないのように、俺に言い聞かせていた。その言葉の通り、 どんな時も笑顔と「ありがとう」を忘れないお母さんの周りには、 優しい人がいっぱいいた。俺もそれを真似したら、板前さんも、仲居さんも、俺に優しくしてくれた。 笑っていれば、なんとかなる。その考えは、のちの俺の人生を救うものになっていった。 部屋の掃除をしていた時、布団のそばに落ちていたゴミをつまんだ。 正方形でピンク色のそれの中身はからっぽで、同じようなものがもうひとつある。もう一つは中身が入っていて、俺はそれを取り出してみた。 ゴムか何かで出来た、丸いものが入っている。太陽の光を透かすほど薄い。 真ん中のあたりを指でつまむと、それはうにょーんと伸びた。 何かを包むように。遠くからお母さんの声が聞こえて、俺は咄嗟にそれをポケットに隠した。あとで義明さんに見せたらものすごく驚いた顔をした。 「お前、これどこで拾ったんだよ、」「部屋掃除してたら見つけた…悪いものなの?」「いや、悪いものじゃないよ、むしろ凄く大事な物なんだけど…」 義明さんはうーんと唸って、どう説明したらいいのか凄く悩んでいるようだった。 「お前がもうちょっと大人になったら、詳しく話すよ。ただ、今は言われても分かんないかもしれないから、これだけ覚えといて。 これって、好きな人を大事にするための物なんだよ。好きな人が悲しまないように、悲しませないように。お前にいつか好きな人が出来たら、その人の事が大事なら絶対ないといけないもの、っていえばいいのかなぁ…」義明さんはきっと、凄く言葉を探して俺に話してくれてるんだと思った。 俺にいつか、これが必要になるときってあるんだろうか。 夏と秋の中間の、曖昧な気温差に振り回されていた日々の中で、事件が起きた。 まだ日が高い時間に父親が帰って来たのだ。ばたばたと家に上がり込み、部屋の中を物色しだす。俺はそのただならぬ様子に声をかけられず、立ち尽くしてみていた。音を聞きつけてお母さんがやって来て、「何してるの、」と 父親に声をかける。振り向いた父親の目は赤く充血していて、人間とは思えなかった。「金どうした?」声がかすれていて、よく聞き取れないほど小さい。 「急に帰ってきてなに?あなたに渡すお金は無い」お母さんは通帳やお金に関係するものを自分の部屋で保管している。以前父親が通帳から勝手にお金を引き落としてることに気づいてからずっと。 「早くだせよ、あるんだろ!!じゃないと俺は、」言葉の続きを飲みこんで、父親は震えていた。顔は青ざめている。何にそんなにおびえているのか分からなかった。「働かない人に渡すお金なんてありません、自分の生活を改めたらどうなんですか」こういうときでも、お母さんは強かった。 父親の方へ目をやると、ポケットから鈍く光る何かを取り出している。 ナイフだった。 短いけれど、切られたらきっと凄く痛い。両手でしっかりと握りしめ、お母さんに刃を向ける。「切ったらいいでしょ」お母さんは動じない。 「死にたくないなら早く出せよ、おい、」刃物を持っているのは父親なのに、なぜかひどく怯えている。多分お母さんじゃなくて、もっと何か別のものに怯えているんだと感じた。 父親は、意を決したように踏み出して、ナイフを持ってお母さんに向かっていく。お母さんは畳の上に押し倒され、父親の手を力いっぱい掴んでいた。 誰か呼んでこなきゃと思うのに、怖くて動けない。 父親の力は思いのほか強いらしく、お母さんの顔にぎらぎら光るナイフの先がどんどん近づいていく。 お母さんが死んじゃう、と思った。 俺の足は重りをはずしたように動き出す。二人が同時に俺の方を向いた。 父親が咄嗟に腕を振り払う。その瞬間、自分の鼻の頭に、かっと熱い痛みが走った。 鼻の頭を切られたようで、赤い血が畳に垂れた。お母さんは血相を変え、父親の首を絞めた。みしみし、という軋んだ音は、父親の寿命を搾り取っている音のように聞こえた。 「ふざけんじゃないわよ、」聞いたことのない声でお母さんが怒っていた。 鋭い眼光は、ナイフよりも強い光を放つ。 細い指は父親の首に深く食いこんで、そのままちぎり取ってしまいそうな勢いだった。男の父親でも引きはがせないほどの力で締め続ける。 俺は痛くて怖くて、大声で泣いた。 その声に気づいた大人たちが次々に部屋にやってくる。 父親は大人たちに取り押さえられ、お母さんは俺の事を力いっぱい抱きしめた。さっきとは違う、愛情を感じる力加減だった。 ごめんね、と泣きながら何回も謝っていた。 ニュースで、近くの崖から男が飛び降り自殺をしたと報道された。 俺の父親だった。 側に添えてあった封筒の中身は、遺書ではなく、闇金との契約書の束だった。 ナイフ騒ぎがあった後、父親はこの家に来なくなった。 正確に言うと、来れなくなったのだ。あの時父親が怯えていたのは、この闇金業者たちだったんだろう。一時の楽しみを追うためだけに怖い人たちにお金を借りて、ギャンブルに費やして、借金を増やすという地獄の歯車を回しつづけ、その歯車に自分でまきこまれて死んでしまった。 馬鹿ってきっと、こういう人のことを言うのだ。 闇金業者から度重なる返済の催促をされ、期日までに金を用意すると約束していたが、その約束が守れず、酷い殺され方をするくらいなら、と自ら死を選んだ、とニュースで知った。 葬式で泣けなかったのは、俺の中に父親との思い出がほとんどなかったからだと思う。むしろ、お母さんの重荷でしかなったこの人間が、 いなくなってよかったとさえ思ってしまう、そんな自分が嫌で仕方なかった。 俺が驚いたのは、おばあちゃんたちがお母さんの事をひどく責めた事だった。 「あなたが息子の事をないがしろにするから、」おばあちゃんは冷たくなった父親が眠る棺に縋りながら泣き叫んだ。 「あなたが息子にもっと寄り添わないからこうなったんじゃないの、闇金に手を付けたことに気づいてたら、助けられたのかもしれないのに、嫁になんかもらわなきゃよかった、この疫病神」わんわんと人目もはばからず泣くおばあちゃんに向けられる視線は、同情ではなく軽蔑だった。 「あんた、今まで頑張って働いてきてくれた嫁さんに言う台詞がそれか?あんたのとこの放蕩息子が仕事もしないで遊んでるときに、この人は汗水流して働いてたんだぞ。柚希が生まれた後もまともに休むことなく、身を粉にして頑張ってきたのに」義明さんが怒ったように言う。 「そうですよ、女将さん、自分の息子さんが働きもしないで遊んでることに気づいていたのに見て見ぬふりしてたじゃないですか。それを正当化して、若女将の責任とかばっかりお嫁さんに押し付けて、酷いのはどっちですか」 仲居さんは泣きながら言った。 「どうして私がそんなこと言われなくちゃならないの?子供が死んで悲しくて仕方ないのに、どうして誰も分かってくれないの?」とおばあちゃんはさらに激しく泣き出した。頭が痛かった。 「どうせ、せがれには跡継ぎなんかできないと思ってたから」おじいちゃんが暗い瞳をして言った。 「ちょうどいいと思った、あんたが来て。せがれにできないこと、なーんでもやってくれるんだからなぁ…」独り言みたいに、壊れた人形みたいに、おじいちゃんはぶつぶつと繰り返す。 お葬式って、こんなにも心がぐちゃぐちゃになるものなんだなぁ、と思いながら、立ち上っていく線香の煙を見ていた。 その後、旅館の評判は真っ逆さまに落ちていった。 闇金に手を汚した人間が働いていて、しかも自殺したのだ。 悪い噂は、真水にたらされた墨汁のように広まって、黒く黒く、綺麗だったものまで濁らせていく。 おばあちゃんはノイローゼになって施設に入った。おじいちゃんはおばあちゃんの面倒を見切れなくなり、精神を患って病院に入院し、眠るように死んだ。 そうしてお母さんは、旅館のすべてを背負わされることになってしまった。 経営する方が赤字になるような状況で、辞めていく人も沢山いた。 でも、義明さんをはじめとするお母さんを信頼している人たちが残ってくれて、旅館は本当に少しずつ、また利益を生み出していった。 本当は、野球部に入りたかった。 でも、そんなことしてる場合じゃないと分かっていたから諦めた。 たとえ部活に入っても、きっと家の事が気になってしまう。 風呂掃除は誰がやるのかなとか、皿洗いは間に合ってるのかなとか、 授業中ですら考えてしまう。 そういう気持ちは、胸の底にしまい込んで、誰にも言わないでおこうと思った。言ったところでお母さんを困らせるだけなら、言わない方がいい。 皆が部活に向かっていく後姿を見ていると、羨ましくて泣きそうにもなったけど、そういうときほど笑うようにした。 さみしいやつと思われないように、自分から会話の輪に入って、 皆と関わりを保っていられるようにしていたった。 つまんなそうにしているやつよりも、笑っているやつの方が皆近寄ってきてくれる。 なんだかむなしいけれど、そういう気持ちにふたをするために、 俺は大げさなくらいに笑うのだ。

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