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第4話
高校入学式の前日、お母さんは沢山ごちそうを作ってくれた。
「ゆずちゃん、もう高校生なんだねぇ」白髪の増えた生え際を撫でながら、しみじみと言う。
料理を取り分ける箸を持つ指先はひびとささくれだらけで、母の日に送った少し高いハンドクリームは、
勿体なくて使えない、と本当にちょっとずつ使っていた。
「お友達、沢山できるといいね」料理を盛ったお皿を俺に渡してくる。
「どんなときも、感謝と笑顔だよ」「うん」
俺は随分背が伸びてしまって、もうお母さんに抱っこしてもらうことはできない。むしろ、俺がお母さんを抱っこできそうだった。
恥ずかしい話だけど、今でも時々お母さんに抱っこしてほしいと思うときがある。
皆俺に対して背が高くていいよな、と言うけど、
俺はあんまり嬉しくなかった。
見た目ばっかりどんどん大人びて、中身の成長が伴ってないような気がしたから。
小さい頃に甘えたりできなかったからか、高校生にもなってこんなことを考える自分がかっこ悪くて嫌だった。
その代わりに俺は、お母さんにハグをするようになった。最初は笑いながら驚いていたお母さんも、
今は優しく抱きしめ返してくれるようになった。
旅館の経営が酷かった頃、お母さんと一緒に過ごす時間がだいぶ減ってしまって、ますます寂しがりになってしまった。
あの時甘えられなかったぶんを、本能的に求めているのかなと思った。
他にも義明さんを始めとする、旅館の人たちにもハグをした。海外の挨拶みたいだなと戸惑いながらも抱きしめ返してくれる義明さんは、
やっぱり優しい人だと思った。
鏡に映る顔はお母さんによく似ている。でも、鋭い犬歯は父親に似ていて嫌だった。
乳歯が抜けたとき嬉しかったのに、そこからさらに鋭い歯が生えてきた時の残念さ。
鼻の頭にテープを貼っているのは傷を隠すためだったけど、いつしかそれが自分のトレードマークになっていた。
友達から「なんのために貼ってるの?」と聞かれたら、「これがないと変身がとけちゃうから」と適当な事を言って笑いに変えていた。
そうやって、自分の内側の暗い部分が見えないように、明るい笑顔で蓋をしてきた。
笑っていれば優しくしてくれるから、優しくすれば優しくしてもらえるから、と頭の中で唱えながら、お母さんが作ったご飯を食べていた。
高校は知らない地域から来た人達でいっぱいで、
話していて楽しかった。
昔俺の家の旅館に泊まった事があると言ってくれる人もいて嬉しかったけど、
あの酷い時代のことも知ってるのかなと不安にもなる。
なにかの拍子に、オセロをひっくり返したように日常が暗黒に変わるあの瞬間を、
もう二度と味わいたくない。家庭事情が複雑なやつと思われたくない。
だけど、人の口に戸は立てられぬとも言うから、俺が知らないところで噂がきっと広まっている。もしその時が来ても、否定せずにただ笑っていようと思っていた。
事実は事実と認めた上で、受け止めて流す。
それでいい。
頼られるのは嬉しい。日直をお願いされたりノートを貸すのも苦じゃない。
困っている人を放っておかないというお母さんの教えのとおりに行動した。
そうしていたら、みんなが俺に優しくしてくれた。
その一方で、誰にでもいい顔をするやつと言われていることも、ちゃんと分かっていた。
夏になると、皆が夏休みの予定を楽しそうに話し合う。「柚希も一緒にプール行こうよ」と誘ってもらえたのは嬉しかったし、勿論行きたかった。
それでもやっぱり、頭にあるのは旅館のことだった。「んー、ちょっと難しいかも…ごめんね」「あ〜、家の手伝い?大変だなー」
そのうち、誰からも誘われなくなるかもしれないけど、お母さんだけがあの旅館に囚われて働いているのを想像しながら遊ぶよりずっといい。
数学のテストは散々だった。特に苦手な科目で、何がわからないのかがわからない。
ばってんだらけの答案を睨んでいると、丸だらけの答案がふと視界に入る。
「すげー、瀬波って頭いいんだ」
思わず話しかけると、その人はびくっと驚きながら振り返った。
瀬波稲雅って、かっこいい名前の人がいるなと前から思っていたのだ。
話しかけたかったけどなかなか声をかけられなかった、気になる人物だった。
「あ、ども…」瀬波は小さい声で言いながら頭を下げた。長い髪の毛の間から覗くピアスが、夏の日差しを反射してきらきら光って綺麗だった。
どういう人なのかな、という興味があった。
今まで話したことのないタイプだったから。
瀬波はいつも机にうなだれて眠そうにしている。近くにいるのは確か三上君。
ふくふくしてて、座った姿がパンダみたいでかわいい。瀬波の髪の毛を触ったり肩をつついたりして起こそうとしているけど、瀬波が起きる気配はない。
だめだこりゃ、と諦めた三上君は携帯をいじり始めた。そのやり取りと空気感から、二人は前から仲がいいことがわかる。気を遣わなくていいって、
羨ましかった。
瀬波はいつも、何かを睨むような目つきをしていた。何かに怒っているのか恨んでいるのかはわからないけど、いつもなんだか辛そうなのだ。
思い出したようにふふっと笑ったり、かと思ったら怖い顔をする。
「瀬波って、何考えてるか分かんなくてキモいよね」誰かが言った。
「そー、なんかいっつもニヤニヤしてるし、なのに勉強できんのムカつかね?」
皆して一斉に笑い出す。
「あんまそういうこと言うのよくないよ」
俺の言葉に空気がちょっと白けた。
こうなると分かってても、人の悪口を聞くのは嫌だったのだ。
瀬波と目が合う。反射的に笑うと、驚いたような顔をして目をそらす。
なんでこんなに、どんな人なのか知りたくなるのか
自分でもわからなかった。
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