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第6話

蝉のなく声って、聞いてるだけで汗が滲んでくる気がするから不思議だ。 指定された場所でお茶を飲みながら、迎えが来るのを待っていた。ペットボトルがぺこん、と鳴る。 前の晩、お父さんが電話しているのを聞いた。 「1ヶ月半近く息子がお世話になるとのことで…いえ、とんでもないです、夏のお忙しい時期に…ええ、はい。ご迷惑をおかけしないように伝えておきますので、はい…」 電話の相手はおそらく、城本の家だろう。 顔が見えない相手に頭を何度も下げていた。 必要以上のお小遣いと、城本の家へのお土産を持たせてくれて、「何かあったらすぐ連絡するんだぞ」とやっぱり優しく俺の頭を撫でた。 キャリーバッグの中には必要最低限の物と、 お小遣いをためて買ったノートパソコンだけが入っている。 歯ブラシとかタオルとかうちにあるやつ使っていいから、そんなに荷物なくて大丈夫だよ、と城本が絵文字いっぱいのメールを送ってきたのだ。 これだけ荷物が軽いと逆に不安になる。 そう思っていると、駅のロータリーに青い軽自動車が入ってきた。 ちょうど俺の目の前に停まり、中から30代くらいの男の人と城本が出てきた。 「瀬波稲雅君かな?俺、柚希の旅館で板前やってる沢野義明っていうんだ。高校の夏休みなんて遊びたい時期だろうに、バイト入ってくれて本当にありがとな」細い吊り目と凛々しい眉毛の義明さんという男の人は、クシャッと笑ってそう言いながら俺の手を握る。 手の皮が分厚くて、指先は切り傷だらけだった。 「お、お世話になります」頭を下げると「緊張すんな、難しいことはないから」とまた笑った。 「あの、すいません、これ、俺の父親からです」 城本の家まで運転してくれる人がいる、と話したら、お父さんが用意してくれたのは小さな菓子折りだった。 「え、いいよ、そんな気ぃ遣わなくて」「いや、でも、預かったから…」 「じゃあ、ありがたく頂戴します。あ、手紙までついてる…なんかごめんな、あとで君のお父さんのお店に電話するから」義明さんは申し訳なさそうにしながらも、菓子折りを貰ってくれた。 「荷物ちょうだい、後ろに積むから」城本も楽しそうに笑っている。 「朝早かったろ、寝てていいよ」義明さんはエンジンをかけながらそういった。 車はロータリーを抜け、下道を走っていく。 家やコンビニなどの建物が少しずつ減っていき、 目に映るものが緑の植物だけになっていく。 非現実の世界に溶け込んでいくようで、眠るよりも景色を見ていたいと思った。 新しいゲームを始めるときの、仮想空間に飛び込んでいくあの感じ。あれに似ている。 ここに来る前に、三上と通話していた。 「あんな有名な旅館の泊まり込みのバイトって凄いね。温泉とか入れるんじゃない?」「いや、そこまでは聞いてないけど…」 「それにしても、稲やんも大胆なことしたね。なんで手伝うって言ったの?」どきりとした。 城本のうなじに性的に興奮するから、間近で見ても嫌がられないような関係になりたかったんですとは言えなかった。 「なんか…困ってたから」「やっぱり稲やんって優しいよね」「なにが…」「いやさ、もしかしたら城本君の境遇に何か感じたからなのかなって思ってたから。それもあるでしょ?」「それは、まぁ、あるけど…」 片親という唯一の共通点は、共有しても楽しいものではない。なんというか、嬉しいといったら語弊があるけど、俺みたいな根暗なやつと城本みたいな明るいやつとの共通点が、重苦しくて人に話したくないようなことだって部分に、安心みたいなものを感じた。 「倒れないように頑張ってね。時間あったら連絡して」と三上は言った。 景色を見ていたいのに、窓から入り込む涼しい風に頬を撫でられ、心地のいい揺れを感じているとどうしてもまぶたが重くなる。 それに逆らうことができなくて、俺は眠ってしまった。 ………………………… バックミラーを見ると、瀬波は気持ちよさそうに眠っていた。 「お前、この子と仲いいの?」義明さんが横目で俺を見ながら言う。「最近仲良くなった」「ふーん、よくそれで手伝いしてくれることになったな」 義明さんは不思議そうにしていた。 俺もちょっと不思議というか、意外に思っていた。 もしかしたら途中でやっぱ無理、と言われるかもしれないと不安だった。 でも瀬波はちゃんと来てくれていた。 瀬波がどんな人なのか、本当の意味では理解しきれていない。人のことを理解するって簡単じゃないけど、夏休みを割いてまで泊まり込みで働いてくれる人のことを、少しでも知りたかった。 夏休みに入る前、俺は三上君に呼び出された。 「ごめんね、こんなとこに呼んで」三上君は小さな湯呑みが乗ったお盆を持ってきてくれた。 湯呑みにはココアが注がれていた。 指定されたのはパソコン同好会の部室だった。こんな所があるなんて知らなかったからちょっと楽しい。「わー、美味しそー。こちらこそご馳走してくれてありがとう」 三上君は俺の向かいに座る。動くたびにぽよん、と頬が揺れて可愛い。 「稲やん、城本くんの家でバイトするって聞いてさ、びっくりしちゃった」 「俺も、正直言うとびっくりしてるんだ。どうしてかなって思ってる」 三上君が入れてくれたココアは、普段飲んでいるものよりもまろやかでおいしかった。 「おいしいよね。稲やんが持ってきてくれてるんだよ。」「うん、飲んだことない味がする」三上君は嬉しそうに笑う。 三上君は少し黙った後、「こんな事したら、稲やんからしたらお節介だって怒られると思うんだけどね」と言った。 「一カ月以上一緒に過ごすなら、稲やんがどういう人なのか、ちょっとだけ知っておいてほしいなって思ったの。これは俺の完全なお節介だから、稲やんには俺から聞いたことは黙っててほしいんだ」 三上君の目は真剣だった。「クラスのみんな、稲やんの事を下に見るような事ばっかり言うけど、そういう人じゃないんだ。繊細なんだ、凄く」 「分かった、誰にも言わない」三上君は友達思いなんだな、と感じた。俺の言葉に頷いて、三上君は湯呑を見つめる。 「稲やんって、父子家庭なんだ」その言葉に親近感のようなものを抱いてしまった自分が嫌だった。「瀬波ベーカリーって知ってる?この辺で一番おいしいパン屋さん。稲やんのお父さんがやってるんだけど」「知ってる。お客さんが教えてくれて、食べたことあるよ。凄くおいしくてびっくりした」 食パン、あんぱん、クリームパン。どこか懐かしさを感じる味がして、見た目の素朴さも可愛らしい。口にするすべてのパンが美味しかった。 パンを口に運んで、ふかふかの布団に包まれたような、何とも言えない安心感を感じたのは初めてだった。ジャムも何もつけずに食パンを何枚も食べる俺を見て、お母さんは笑っていた。 「稲やんのお母さんは、色んな男の人と関係を持ってて、それが原因で離婚したの。パン屋さんの仕事もしないし、稲やんの面倒もまともに見なくてね。 だから稲やんは、女の人に対して敵意みたいな、恨み、みたいなものを感じてて…女の人が苦手なんだ。凄く。大好きなお父さんの事を苦しめて、傷つけたお母さんの事を、今でも凄く恨んでる」 頭によぎったのは、瀬波が女子を見る目線だった。睨みつけるような目つきで見ているから、何か怒っているのかな、と思っていた。 「皆が言うような怖い人間じゃないんだよ。いつもお父さんの事を心配してて、親思いのいい人なんだ。話すと面白いんだよ。ゲームの事とか詳しいし。それに頭いいしね。勉強教えてもらうといいよ」 「この前のテスト、瀬波が一番いい点だったもんね」「そうそう。つまり、俺が言いたいのは、凄く繊細なだけなんだって事。誤解してほしくないんだ。話してみて、どんな人なのか城本君自身で感じ取ってほしいな」「うん」 湯呑みの底にココアのもとがどろりとたまっている。 瀬波の事が羨ましかった。俺には、こんな友達なんかいないから。 もう一度瀬波を見ると、眉間にしわを寄せながら眠っている。 「挨拶もちゃんとするし、いい子そうだな」義明さんが言う。 三上君がしてくれた話を思い出す。瀬波も、俺と同じような家庭環境だったんだ。そんな悲しい共感なんて、抱いてはいけないのかもしれないけど。 長いようで短い夏休みの間に、俺は瀬波の事をどのくらい知ることが出来るんだろう。 車はもうすぐ、俺の家に着く。

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