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第8話

朝の五時に設定したアラームに起こされる。 正直早起きは苦手だからちょっと辛い。 それに、昨日はなかなか寝付けなかった。だって隣に城本がいるのだ。 湯上りには上半身裸で出てくるし、人懐こい笑顔でジュースのむ?と言いながら近づいてくる。綺麗に割れている腹筋を舐めたいな、と思った。 雫が筋肉のふくらみの沿って流れ落ち、ジャージに吸い込まれる瞬間までじっと見てしまう。 よこしまな考えをジュースと一緒に飲み込んだ。 寝るときには仲良く隣に布団を敷いて眠った。城本がそうしよう、と嬉しそうに言うもんだから、断れなかった。 となりですやすやと眠る城本を背に、俺は三上とメールしていた。 「そっちはどう?」「だめかもしれん」「はや!」 なんで駄目なのか、という理由を話すことは出来なかった。 隣に目をやると、城本はいない。もう起きているんだろうか。 洗面所の方から水の音がする。 綺麗に畳まれた布団が端の方に寄せられていた。 「あ、起きた?それとも起こしちゃった?」やっぱり上半身裸で、顔を拭きながら城本が洗面所から顔を出す。 まだ一日目が始まったばっかりなのに、俺は色んな意味で疲れ切っていた。 てっきり着物で仕事するのかと思っていたけど、恰好は動きやすいようにジャージでいいと言われていた。 「掃除とかすると汚れるかもしれないから」城本の後を付いていく。 俺よりも背が高くて、目線を上に向けるとうなじが見える。 傷ひとつない首を見ていると、自分の火傷でただれた首が嫌になる。 さすがに暑いので髪の毛は縛った。でも、うなじの火傷が見えないようにタオルを首に巻いていた。 「そうしたら、今日は洗濯と、お風呂の掃除と、部屋の掃除からかな。 暑いから気分悪い時はすぐ言ってね」城本が俺に向き直ってそういった。 「あ、うん…」バイトの経験はない。正確に言うと、家の手伝いでそれどころではなかったのだ。 次第にパートさんを雇うようになり、自分の役割がちょっとずつ減っていった。そのことがなぜか、俺はさみしく感じた。 想像はしていたけど、旅館の中は常に目まぐるしく動いている。 客からの注文、予期せぬトラブル。どんなことが起きようと、旅館の人たちは笑顔を崩さず迅速に対応する。 「お客様から部屋の日当たりが思っていたより悪いから部屋を変えたいとのお声がけがありました」 「新幹線のトラブルで、時間通りに到着できないとの連絡が」 「迷子の放送をしてほしいと…」 その裏では誰かが走り回り、注意され、汗を流している。 本当に綺麗にろ過された上澄みだけを、客たちは味わっている。 勿論仕事だからなんだろうけど、舞台裏でこんなにも沢山の大人が、 些細な一つのトラブルで困惑し話し合い、時には語気を強めて言い合いをしている。 だけど、その苦労はどれも客には見えない。だから簡単に文句だって言えてしまうし、無理な注文だって出来てしまう。 その理不尽さにあんまり納得がいかない俺は、多分接客業というものに向いていないんだと思う。なんていうか、もっと褒められていいんじゃないかと思った。 お客様は神様って、確かにそうなのかもしれない。 俺の家だって、いくら美味しいパンを焼いても、お客さんが来て買ってくれなきゃ商売にならない。 随分前に、うちで買ったパンに虫が入っているとクレームをつけてきた人がいた。お父さんは深々と頭を下げて何度も謝っていた。 しかし、そのクレームはでっち上げで、うちの店の繁盛をねたんだ人間が自作自演で行ったものだと後から知る。 それでもお父さんは怒らなかった。「嫉妬させるくらい、美味しかったって事さ」と笑って俺の頭を撫でたけど、俺は今でもそのクレーム人間を許していない。 理不尽に応えるだけが、サービスなんだろうか。旅館で働く人たちの背中を見ながら、俺は思った。 俺は城本と一緒に洗い終わったシーツを干していた。干しても干しても、シーツの山は小さくならない。終わりがあるのか不安になってきた。 城本は鼻歌を歌いながら働いている。「そっち持って」「あ、うん…」 大きなサイズのシーツの四隅を二人で持って、物干しざおにかける。 という作業を何度も繰り返した。 ようやくかごの中が空になったころには、俺は体力の半分以上を使ってしまっていた。 縁側に座り込んで、ふと前を見る。 白い布の群れが夏の風に揺られている様子は、壮観だった。 柔軟剤の、桃みたいな優しい匂いが鼻をくすぐる。 大きなエイが竹林をバックに泳ぎ去っていくようで、洗濯バサミが外れて飛んで行かれてしまっては困るんだけど、それはそれで綺麗な気がする。 「俺、この光景見るの好きなんだ」隣に座っている城本が言う。 「俺も」と答えると、嬉しそうに笑っていた。 部屋の掃除と言っても、本格的な掃除は旅館の人がするらしく、 俺たちはその作業が円滑に進むよう、洗うものとそうでないものを分けるなどの作業を担当するらしかった。 「俺向こう側から回ってくるから」城本は廊下の向こうに小走りで向かう。 さっきまで誰かがいた部屋に入るのって、なんだか泥棒をしているような気分になる。 シーツや布団が乱れたままなのが、なんとなくいやらしいと思った。ゴミを拾っていると、視界の隅に黒いパッケージを見つけた。ゴム手袋をした指でつまむと、それはコンドームの包みだった。 こんなシチュエーションのゲームをしたことがある。俺様な社長に一方的に目をつけられ、あれよあれよと性奴隷にされいく。 お忍びで豪華なリゾートに泊まってめちゃくちゃにされていた。 絵が綺麗だったけど、あんまりおもしろくは無かった。 ひとつだけでなく、使用済みのものがゴミ箱の中に入っていた。 これがなければ、相手の人、相手が女の人かどうかは分からないけど、 女の人だったとしたら妊娠してしまうんだろう。 男なら性病かなんかになる。 こんな薄いゴムひとつで、それが防げるって凄いなと純粋に思う。 小学生の頃、保健体育の授業で見た。女の人の体の中に、男の人の体の中で作られる精子が入りこんで、細胞分裂して、人間が出来ていく。 どうやったら入り込むのか、それを知った時、気持ち悪くなった。 セックスそのものがじゃなくて、母親がそういう行為をしたことを想像してしまったから。 男にしかついてないものが、女の体の中に入っていく。 少々げんなりしながら作業を終えて部屋を出る。すると、廊下の向こうから女の人の話し声が聞こえてくる。 「大丈夫だって、だって旦那私の事信用しきってるもん」 浮かれた様子の女の声。俺はそっと声がする方へ進む。 「だってさー、仕事仕事で全然楽しくないもん、あいつ。それに比べたらあの人の方がよっぽどいいよ。いや、罪悪感が無いわけじゃないし、普段はいい奥さんしてるもん。ちょっとの浮気ぐらい、いいじゃんね」 あはは、と笑いながら話す女の姿に、自分の母親が重なった。 まっずぐに伸びているはずの廊下がぐにゅっと歪んでいった。 ガムテープで頑丈に封をしたはずの箱の中から、ヘドロみたいな思い出が勝手に沸きあふれる。 首の後ろの火傷の跡が、あの日と同じくらいに熱を持っていく。 母親、いや、あの女もきっとあんな風だったのだ。 男の人の体にまたがって、品のない声を上げるしか能のない役立たず。お父さんが婿養子で、肩身が狭いのを知っていたのに何もしてあげなかった。 どうせ今頃、悲劇のヒロインぶって知らない誰かと寝ているんだ。 そういう才能だけはピカイチだった。 あの女は、俺の事をほんの一瞬でも可愛いと思ったんだろうか。 お父さんの事を、愛していたことがあるんだろうか。 立っていられなくて、その場にしゃがみこんだ。電話をしている女の声が遠くなっていく。 それなのに、俺の目まいはどんどん酷くなっていく。気持ち悪い。 三上に電話しようかと思ったけど、携帯は部屋に置いてきてしまった。 体が震えだす。お父さん、と声が漏れた。 「どうしたの、」顔をあげると、城本が不安そうな顔で俺を見ていた。 返事が出来ないまま、俺は意識を失った。 お父さんにおんぶされ、河川敷を歩いた。広くてあったかい、ずっとここにいたいと本気で思った。「お父さんは、ずっとパン屋さんなの?」問いかけると、「そうだよ」とお父さんが言う。 「じゃあ、ずっと忙しいの?」「…そう、かなぁ」 かぽかぽ、とお父さんのサンダルが鳴らす音が心地いい。 「でも、今度の日曜日はお休みだよ」「なんで?」「稲雅、遊園地行きたいって言っただろ」「ほんと?遊園地?お父さんと二人?」「ほんとだよ。お父さんと二人。一日中、沢山遊べるよ」 わーい、と声をあげて喜んだ。だめもとで頼んだおねだりを覚えていてくれたことも、お父さんとの思い出が増えることも嬉しかった。 その頃から増え始めていた、お父さんのこめかみの生え際の白髪は、見て見ぬふりをしていた。 夕焼けのオレンジ色は、全てをその色に変えてしまう。 真っ白なお父さんのTシャツも、道路も、川の水も、全部。 それが、ちょっとだけ怖かった。 目を覚ますと、俺は布団に寝かされていた。義明さんと城本が不安そうに俺を見ている。 「よかった、起きたか。具合どうだ?」義明さんが俺のおでこに手を当てる。 俺がいるのはどこなんだろう。寝泊りに使わせてもらってる部屋ではない。 「ここ、従業員の仮眠室なんだ。ここが一番近いから運んじゃった」 城本が言う。 「すいません、迷惑かけて…」 「迷惑なんかじゃないよ。軽い熱中症だったのかもな。今日はもう休んでていいよ。ご飯だけちゃんと食べて、よく寝ろよ。俺もう仕事あるから行くけど、柚希そばにいてやれよ」「うん」 義明さんは部屋を後にする。倒れた後の事は覚えていない。 ぼーっとしながら天井を見ていた。木目の模様が、人の目に見えてくる。 「具合悪いのに気づかなくてごめんね。一緒に作業すればよかったね」 城本が申し訳なさそうに言う。 「瀬波、お父さんの事呼んでた」「え…」「泣きながらお父さん、って何回も言ってたから…あの、馬鹿にしてるとかじゃなくて、お父さんに会えないの辛い?」何と答えたらいいのか分からなかった。 「もし辛いなら、バイト期間の調整できるからね。俺、手伝いしてくれる人がいて嬉しくて、勝手に一人で舞い上がっちゃって、こういう事言いづらかったのかなって思って…」優しい物言いに、自分の中の何かが刺激される。 「具合が悪いとかじゃない…」「うん?」「お父さんに会えなくて辛いとかでもない…」「うん」 「おんな…」 「女?」 「さっき、廊下で話してた女の人いて…多分、浮気してる…旦那さんがいるのに、浮気相手とここに来てる」 「え、」 「それ聞いてたら、気持ち悪くなった…」 「嫌な話聞いちゃったんだね。そりゃ誰だって気分悪くなるよ」 「違う、思い出して…」 「何を?」 「自分の母親の事…」 自分から母親の事を話したいと思った。 「俺の母親、浮気して他の男と子供作って出てったんだ」 「うん」 「大っ嫌いだった…お父さんの事、ただの金稼ぎの道具としか思ってなかったから、大事にしてるとこなんて一回も見たことなかった…」 「うん」 「仕事しなくてもいいから、せめて、大事にしてほしかった…お父さんの事も、俺の事も…周りの皆みたいに、一緒に出掛けるとか、ほんとに一回でいいから、仲良しの家族になってみたかった…」 視界がだんだんぼやけてきた。半べそをかいている。言いたいことはたくさんあるのに、何から言ったらいいのかわからない。 ぼやけた視界に飛び込んできたのは、白だった。 城本が俺の体を抱きしめている。 シーツと同じ、桃みたいな甘い匂い。 「泣いていいよ」 耳元に響く優しい声が、俺の涙腺の蛇口を勢いよくひねった。 「は、母親が、知らない男の人とやらしい事してるとこ見て…」 「うん」 「気持ち悪かった、凄く…声も、揺れてる胸も全部、気持ち悪くて、不愉快で、その間にもお父さんは働いてるのに、どうしてこの女はいい思いしてるんだろうって…」 「うん」 「女なんて大嫌いだ…」 「うん…」 「なんで非力ってだけで、馬鹿にされなきゃいけないんだよ、クラスの女子より背が低いからって、馬鹿にされなきゃいけないんだよ…」 「うん…」 「都合が悪くなった途端、猫なで声だして甘えて、先生にいい顔して、女だったらなんでも許されんのかよ…」 「うん…」 「調子乗って化粧なんかしやがるブスも、対して綺麗でもない足だしてスカート短くしてるバカも、覗いたとか言ってくる自意識過剰なブスも、陰気だってパソコン部馬鹿にしてくるクソ女も、全員全員、嫌い、嫌い、大っ嫌いだ…」 女は敵だ。 これからも一生、ずっと敵だ。 「女なんか好きになんかなれない、あんな、母親みたいな女に支配されるかもしれない未来、絶対嫌だ…」 「うん」 「皆が皆、嫌な人じゃないことくらい分かってる、分かってるけど…女ってだけで怖い、思い出したくないことばっかり、考えるから、だから…」 もし母親がまともだったら、俺は女を好きになったのかな、と思うときがある。 俺の支離滅裂な話を、城本は優しく抱きしめたまま聞いてくれた。 長い指で、俺の頭をそっと撫でる。 「俺もね、似たような物なんだよ」城本が囁いた。 「その話はあとでしてあげるから、今は、沢山泣いていいよ」 お父さん以外の前で、声をあげて泣いたのは初めてだった。 ひっくひっくとしゃくりあげて泣く俺を、城本はただ抱きしめてくれていた。 赤ちゃんになった気分だった。 背中に腕を回してすがりついても、城本は怒らなかった。 それどころか、さらにきつく抱きしめてくる。 このまま死ねたら、幸せかもしれない。 体中を、いろんな熱が駆け回る。 それが今は、涙になって溢れていく。 こんな時でさえ、性的に興奮している自分が、どうしようもなく嫌いだった。

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