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第9話
前に保健室に運んだときも軽かったけど、
今のほうが体重が減ってるんじゃないかと思った。
青い顔をして震えている瀬波を、義明さんと他の板前さんと一緒に運んでいる。
お母さんに持たされていた社員用の携帯で義明さんに電話したら、丁度休憩中ですぐに駆け付けてくれた。
「こっから別館まで遠いっすよ、どうします?」
「俺らが使ってる休憩室が近い、そっち行くぞ」
「救急車呼びますか?」
昨日一緒に夕飯を食べていたとき、なんか緊張して食べられない、と半分くらい残していた。初めて来た場所で、疲れもあったのかな。
「ご飯、粗末にしてごめん」と謝っていたのが印象に残っている。
布団に寝かせると、少しずつ顔に赤みが戻ってくる。
「軽い熱中症だったのかもしれませんね。今は様態も落ち着いてきたから、ちゃんと食べてゆっくり眠ってね」近所の町医者のお医者さんを呼んで診てもらったけど、そこまで重症じゃなくて安心した。
「ただ、熱中症よりもこっちのほうが気になるんだがな…」先生は瀬波の首の後ろを見ながら言う。
覗き込むと、そこには赤いあざが広がっていた。いびつな世界地図みたいに見える。
「なんだろう、これ」じっと見ていると不安になる。
「火傷の痕だと思うんだけど…どうやったらこんな火傷の仕方するかな…」先生は考え込む。
「自分でこんな怪我するかな」義明さんも言う。
「俺の知り合いに、似たような怪我してるやついるんすけど…」見習いの板前さんが気まずそうに口を開く。
「そいつは確か…親にやられたんすよ、あっついお湯腕にかけられて。見られたくないって、真夏でも長袖着てましたから」
空気がひんやりと冷める。
「親がやったとは断言できないけど…何か複雑な理由でもあるのかな」
義明さんが言う。皆が不安そうな顔で瀬波を見ていた。
「え、稲やん倒れちゃったの?」
俺は廊下に出て、三上君に連絡した。
「うん、軽い熱中症だって。今寝てる。ゆっくりすれば大丈夫って言ってた」
「そっか…よかった。教えてくれてありがとう」
「あのさ…」
「ん?」
「瀬波の首の後ろの火傷みたいなやつ、なんだか知ってる?」
電話の向こうで三上君が息を呑むのが分かった。
「お母さんにやられたんだ」
嫌な汗が背中を伝う。
「酔っ払ったお母さんが、お茶か何か飲もうとしてポットのお湯をこぼしちゃったの。その真下にちょうど稲やんが寝てて、それで…」
「そうだったんだ…」
「ごめん、言えばよかったね。稲やんにとって、凄くトラウマになってることだったから」
「ううん、大丈夫。そんなことあったんだ…」
電話を終えたあと、思わず自分の首を撫でた。
突然熱湯が降りかかり、皮膚に伝わる焼けるような熱。考えただけで怖い。
そっと部屋に入ると義明さんだけが残っていた。
「なんか一人にするの怖くて」義明さんは眠る瀬波の顔を見ながら言う。
その隣に俺も座って、瀬波が起きるのを待った。
目覚めた瀬波は、胸の内を少しずつ明かしてくれた。
どうして女の人が苦手なのか、自分の言葉で。
目尻に涙が溜まっていって、しずくになって零れ落ちそう。その姿を見ていると、無性に抱きしめたくなった。なんだかそうしないと、瀬波が消えてなくなってしまう気がしたから。
抱きしめた体は、思っていたより細い。
ぴたりとつけた胸から伝わる鼓動が、少しずつ早くなっていく。拒まれるかと思ったけど、瀬波は抱きしめ返してくれた。
そのまま声を上げて泣く瀬波のことを、凄く愛おしいような、大事にしてあげたい気持ちになった。
俺はお母さんのことが大好きだから、
女の人が嫌いと思ったことも憎いと思ったこともない。だけど瀬波にとっては、この世の何より憎くてたまらない存在だ。
俺からすると、父親がそうだ。もうこの世にいないけど、この世にいない人を憎いと思うのもなんだか悔しいから考えないようにしていた。
男の人というものを憎いと思わずにいられたのは、
義明さんや旅館で働く真面目な人たちがいてくれたからかもしれない。
もしそういう存在がなかったら、
俺も瀬波と同じように男の人というものが憎くて仕方なくなっていたかもしれない。
本当に僅かなきっかけが、ここまで大きな差を生むのかと、切なかった。
瀬波が俺の体をぎゅう、と抱きしめる。
「さみしい、」涙声で瀬波が言った。さみしい、という気持ちのどうしようもなさは、俺もよく知ってる。
お菓子を食べてもテレビを見ても、募る一方。そんなものより、お母さんの抱っこの方がずっといい。欠けていた心の中身が、一瞬でいっぱいになる魔法だった。
「さみしいね」と返すと、うん、頷いた。
瀬波の中のさみしさがどのくらいなのか、本当の意味では分からない。
でも、こうしてることで、そのさみしさの半分だけでも貰えたらいいなと思った。
日が傾いて、旅館の中も昼間に比べたら静かになった。
「普通のご飯食べられるなら、部屋に持っていってやりな。下膳するの後でいいから」
義明さんが二人分の親子丼を作ってくれた。
「ありがとう」「よく食べてよく寝な」
お盆を抱えて部屋に戻ると、瀬波は起き上がってぼんやりしていた。
「大丈夫?辛くない?」「あ、うん…全然…」
頭を軽く抑えながら言う。
「頭痛いの?」「いや、泣きすぎて、ちょっと痛いだけ…」とうつむく。
「これ、義明さんが作ってくれた。食べきれなかったら残して大丈夫だよ」
親子丼とお吸い物と、デザートにレモンのゼリーを付けてくれた。
「あ、ありがとう…」
丼の蓋を開けると、卵と出汁の優しい匂いが漂う。
れんげで掬って、口に運ぶと自然と頬がほころんだ。「美味しいね」「うん」
瀬波の服は、先生に診てもらうときに勝手に着替えさせてしまったので、うちの旅館の浴衣を着てもらっている。
瀬波のどこか儚いような雰囲気によく似合っていた。
「義明さん、今どこにいるかな」「多分まだ厨房かな。なんで?」「お礼、言わなきゃ…こんなに迷惑かけたんだから」「明日で大丈夫だよ。今日はゆっくりしないと」「なんか初日からこんな、迷惑ばっかでかっこわる…」「そんなことないよ、慣れない環境だもん」
もくもくとれんげを口に運んでいるところを見て安心した。
瀬波は夕飯を完食してくれた。それがとても嬉しかった。
「今まで食べた親子丼で、一番美味しかった、ごちそうさまでした」
瀬波がほんの少し笑って言った。
「義明さんに言ってあげて。凄く喜ぶから」
しばらくお互い無言だった。
「泣いたりして、ごめん…」先に口を開いたのは瀬波だった。
「言わなくていいことまでぺらぺら喋って、ほんと…」「謝らなくていいよ。そういうとき誰にだってあるし」
瀬波は俯いたままだった。はらりと落ちる髪の毛を耳にかける。具合が悪い人に対してこんな事思っちゃいけないのに、なんか色っぽいなと思ってしまった。
「俺の話もするね」俺は鼻の頭のテープを剥がした。友達の前で剥がしたことは一回もない。
鼻の頭にある一文字。皮膚科に行って、多分傷跡が消えることは無いと言われた日、凄く悲しかった。お母さんがそんな俺を見かねて、ファミレスに連れて行ってくれた。そこで頼んだチョコレートパフェは、今もまだ食べられるのかな、と関係ない事を思い出す。
「父親にやられたの。家に来て、金出せって包丁だしてお母さんの事脅してね、暴れだしてさ。お母さんに馬乗りになって、刺そうとしたの。
で、俺は咄嗟に飛び出して、父親も咄嗟に包丁を振って、こうなっちゃった」
瀬波は目を見開いて俺の鼻の頭を見ている。
「…痛かった?」「痛かったよ。怖かったし。でも、お母さんが殺されちゃうって、そう思ったら勝手に足が動いてたの。向こう見ずだよね」
「凄いと思う、普通に…」「あはは、そうかな…」瀬波の腕が俺の顔に伸びてくる。
指先が、俺の鼻の傷をそっとなぞった。
「あ、ごめん…」「いいよ」
瀬波はしばらく俺の鼻を優しく撫でていた。指が離れていくとき、
「話してくれて、ありがと」と瀬波が言った。
「ねぇ、名前で呼んでいい?」「え、あぁ、別にいいよ…」「やった。稲雅って名前、かっこいいよね」「どうも…」「俺の事も名前で呼んで」
「え、あぁ、あー…うん、段々に…」
眠る頃、昨日と同じように布団を並べて寝た。
布団にもぐって、しばしお互い無言になる。
「稲雅って、普段なにしてるの?」「え…ゲームしてる…」「どんなの?」
稲雅は困ったような顔をして、「エロいやつ」と言った。
「ひぇ、そうなんだ」思わず顔が赤くなる。「俺ほとんどゲームしないから、全然わかんないや。それ、面白いの?」
「まぁ…うん…って言っても、女の人が出てくるような奴じゃない」
「へぇ」「なんていうか…男の人が、エロい目に合うやつやってる…」
「そ、そういうのあるんだ」まったく未知の領域だった。なんだか凄く恥ずかしい話をさせてしまっている気がする。
「…稲雅は、男の人が好き?」「…多分、そう」「付き合うなら、男の人がいい?」「…だと思う」「どういう人が好き?」
稲雅はほんのり頬を染めて黙ってしまった。「ごめんね、急に聞かれてもわかんないよね」
「なんか、この際だからもう全部言うけど…俺がここに来たの、お前の近くに居られるからだし…」
小さい声でそう言った。その言葉に俺まで赤くなってしまう。
「え、そうなの?」と聞くと、プイっとそっぽを向いてしまった。
「えっ、俺の何が、そんな、気になったの?なんで俺なの?」困惑してあれこれ聞いてしまう。稲雅は布団をかぶってしまった。
「ねぇ、教えてよぉ、気になるよ~」おまんじゅうみたいに布団の中に隠れてしまった稲雅の体をぽんぽん叩く。
「うなじ」「へ?」布団の中からくぐもった声がする。
「うなじが綺麗だったから好きで見ててもっと近くで見たかったから」
早口に言われ、理解するまで時間がかかった。
うなじが綺麗って、言われたの初めてだ。思わず自分の首を触った。いや、それより、稲雅にとって自分がそういう存在だった事に凄く驚いている。
冷静になって思い返すと、確かに見られてはいた。でも、そこに好きと言う感情が絡んでるとは思わなかった。
「キモいと思ったならそう言って」布団の中から稲雅は言う。
「思ってないよ、思ってないから、出てきて」布団を撫でると、もそもそと出てくる。その顔は真っ赤だった。
稲雅に好き、と言われて、気持ち悪いとは思わなかった。
誰かに好意を持たれることは嬉しいし、稲雅にそう思ってもらえることも嬉しい。でも、俺の気持ちは多分恋愛感情とは微妙に違う。
稲雅に対し手抱いているのは、守ってあげたい、みたいな、保護欲だった。
傷ついてるから大事にしたい。お願いを聞いてあげたい。
親心のような感情だったから、稲雅が抱いている感情とずれがある気がする。
だけど、稲雅の気持ちを否定するのは、絶対に嫌だと思った。
「教えてくれてありがとう」頭を撫でると、稲雅は目をそらす。
「俺の事、好きって事?」尋ねると、ちいちゃな声で多分、と返ってくる。
告白された、というかさせてしまった。
「風呂…」「風呂?」「風呂上り、半裸で出てくんの、出来ればやめてほしい、」「あ、ごめん」「俺は、そういう目で見てるから」
そういう目。俺の裸を見ることは稲雅にとって、いやらしいものを見てしまったのと感覚が近いらしい。
「これからは気を付けるね」そう言うと、うん、と稲雅が言う。
俺も布団に入って、稲雅に向き合う。稲雅は布団からちょっとだけ顔を出して俺の事を見ている。
もしかしたらこの人は、凄く可愛い人なのかもしれない。
さみしがりで、不器用だけど礼儀正しい、お父さんの事が大好き。
愛おしい、ってこういう事かなと思った。
まだ一日目なのに、全てが目まぐるしく変化した。
呼び名と、気持ちと、心の内。
自然と瞼が閉じるまで、お互いの目を見ていた。
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