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第10話
目が覚めると、目の前に城本の顔がある。
昨晩で、胸の内をほぼ明かしてしまった。それがよかったのか悪かったのか、正直分からない。でも、不思議とすっきりしたような気分でもある。
鼻の頭にある一文字。思っていたよりずっと重たい理由を持ってる傷跡。
見てるとなんだか自分の鼻の頭がムズムズする。
城本が、うーん、と唸りながら目をこする。起きたらしい。
「おはよう」眠そうな声で、ふにゃっと笑いながら言う。
「うん…」「今日は無理しないで、簡単な事しようね」「うん…その前に、義明さんのとこに行きたい」「分かった」
義明さんは俺の顔を見て、元気そうでよかったと頭を撫でた。
その後ろから城本の母親も駆けてくる。
「昨日、顔を出せなくてごめんなさいね。具合はもう大丈夫?辛かったら無理しないでいいのよ」心配そうに俺の顔を覗き込む。その顔は、女将の顔じゃなくて子供を心配するときの親の顔のように見えた。
俺は母親にこんな風に心配されたことは無いけど。
「いや、大丈夫です、バイトしに来たのに休んでばっかりじゃ駄目だし…」
「その気持ちはとっても嬉しいです。ありがとう。でも、無理しちゃいけませんよ」念を押すように俺に言った。
俺と城本は、枕カバーを交換する作業をしていた。白いカバーを外しては被せ、という作業を機械のように繰り返す。
大きなマシュマロみたいにふかふかした枕は、そのままぴょこぴょことどこかに歩き出しそうにも見える。城本に目をやると、少し眠そうにしている。
くぁ~っと犬みたいなあくびをして目をこすっていた。
「あ、ごめん」「いや、別に…」昨日まともに眠れなかったんだろう。
俺があんなこと言い出したからだろうな、と思いながらカバーをめくり続けた。
一週間ほどたって、少しずつ仕事が増えていく。でも嫌じゃなかった。
初日から迷惑をかけた事の申し訳なさもあって、出来ることがあるならやりたい、という気持ちで働いていた。
厨房で皿洗いをお願いされ、作業自体は難しくないけど俺がビビったのは食器の扱いだった。
たかが箸置き一つとっても、見事な絵付けをしてある。
「それ一個で漫画の単行本10冊くらい買えるぞ」義明さんがにやにやしながら言う。その一言にぞっとした。でも慎重になりすぎると皿がどんどん溜まる。背中に冷や汗を感じながら洗い物をした。
旅館の中の構造を覚えてきて、迷う時間が減っていく。
「ボイラー室どこかわかる?」「えっと、別館の途中の階段降りて左曲がって突き当りを右」「正解。そっちに用があるから行こう」
城本の後をつかなくても、目的地が分かるようになってきた。
「物覚えが速いね」城本が隣で笑う。
自分ではあまりわからないけど、褒められることは純粋に嬉しかった。
宴会場の片付けも、洗い物は沢山あるし、掃除は大変だし、終わったころにはへとへとだったけど、宴会場が元通りに綺麗になったところを見ると何とも言えない達成感があった。
一日が終わるたびに、城本の母親は必ず俺に今日も一日ありがとう、と言いに来た。
たとえどんなに自分が忙しくても。
額に汗を浮かべて、誰かが呼ぶ声のもとへかけていく。
「いいお母さんだ」城本にぽつりと言った。それを聞いた城本は、嬉しそうに「そうでしょ」と笑った。
俺と城本の関係は特に何も変わらない。しいて言うなら、城本が風呂上りにちゃんと服を着てから出てくるようになった事くらいだ。
これでいい、と思う自分と、ほんとにこれでいいのか、という自分がいる。
一歩踏み出したら、いい関係になるかもしれないのに、ともう一人の自分が言う。
俺は城本といい関係になれるのか、なっていいのか、分からなかった。
なれるなら、そりゃなりたい。俺の新しい性癖の扉を開けたこいつに近づけるチャンスはいくらでもあるのに、思いのたけまで話してしまったのに、その先に進めない。
これがゲームなら、なんかしらのラッキースケベが起きたりして、いやらしい事が始まったりするのに、悲しいかな俺は現実世界に生きる人間なのだ。
こんなにも恵まれた環境にいて、触ることも出来ない自分の奥手さが本当に嫌だった。
しようと思えば、寝てる間に触ることだってできてしまう。
キスだって出来てしまうかもしれない。なのに、俺にはそのどれもする勇気が無かった。
というかそもそも、まだそこまで仲良くないやつに急にキスだの何だのされたら嫌に決まっている。
俺の中に人並みの倫理観があってよかった、と思った。
日常というものは、ある日突然ひっくり返る。
俺はそれを身をもって知っているのに、油断していた。
その日の夜、城本が顔を赤くしてこういった。
「俺ね、男の人どうしでどうやってエッチな事するのか調べたの」
とんでもない一言に飲んでたお茶が変なとこに入った。
「え、なんで?」「いや、なんか、知りたかったから…」
体育座りをして、小さく丸くなっている。
「稲雅も、そういう事したい?」「ん!?」「稲雅も、その、俺とそういう事したい?」
首をかしげて、恥ずかしそうに尋ねてくるその様はあまりにもあざとくてかわいい。多分無意識だろうけど。
したくないといったら嘘になる。キスすらしたことないのにこんな生意気な事言ったら誰かに怒られるかもしれないけど、性的に興奮してしまうような要素を持っている人間に、触れるなら触ってみたい。
うなじだけじゃなくて、それ以外の所も触ってみたい。
「駄目だろ、それは」「なんで?」「いや、だって…お前、俺の事好きって訳じゃないだろ、それに、男とそういう事すんの、嫌だろ…」
城本は多分、俺が思ってるよりずっと優しい。俺の事をかわいそうと思ってくれて、こういう事を聞いてきたんじゃないかと思った。
泣きながらすがってしまったし、好意を抱いていることも言ってしまった。
かわいそうだから、いやらしいことをしてあげようと思っているなら、それは多分やっちゃいけないことだと思う。
一時の感情に流されただけで、ただでさえキモい俺にそんな事しなくていい。
「好きじゃない人の前で、こんな、エッチな事がどうとか、言わないよ」
城本がちょっと怒ったように言う。
その顔さえ、俺には興奮の材料になってしまう。
「え、なに、好きって、俺が?」「うん」「…なんで?どこが?」
「仕事、凄く真面目にやってるから。素直で、物覚えも早くて、一生懸命だから」俺の目を見ながらそう言った。
「俺がかわいそうだから、そういってるとかじゃないの…」
「違うよ、」「いや、だって…俺キモいじゃん、エロいことばっか考えてるし変態臭いし重いし…」
「一生懸命働いてるときの顔、凄くかっこいいんだよ」
城本が、むっとした顔で言う。
「だからそんな、キモいとか言わないで」と思ったらさみしそうな顔をする。
「…俺お前が思ってる以上にスケベな事考えてるんだぞ」「うん」
「いや、うん、じゃなくて…」
「じゃあ、して」
部屋を包む空気がわずかに甘さを帯びた。
「どんなエッチな事考えてるのか、俺に教えて」
そんなエロいゲームの濡れ場の導入みたいな事言うな、と思った。もう一人の自分が、
ここまで来たらやれ、と囁く。
俺は城本の方へ恐る恐る近づく。城本は体育座りを解いて、ぺたんとお尻をついていわゆる女座りになった。なんで今日に限って、こいつは浴衣を着てるんだろう。そういえば、たまには浴衣を着て寝ようと言ってきた。まさかこういうことを想定して言ったんだろうか。だとしたらエッチにもほどがある。
浴衣の乱れた合わせ目から、綺麗な太ももが覗いている。
頭が沸騰しそうだった。体中の細胞が沸いている。
そっと肩を撫でてみる。城本は抵抗することなく、じっと俺を見ていた。
くりっとした子犬みたいな目を見ていると、ゆっくりと瞼が閉じて隠されていく。
俺が目を閉じたのは、唇が合わさったと感じてからだった。
ほんの数秒合わさっただけなのに、馬鹿みたいに興奮する。
ばっと体を話すと、城本が目を開ける。「もっかい」上目遣いでそう言った。
魔性とかそんなんじゃない、無自覚なのだ。暴力的なかわいさといやらしさでぼこぼこに殴られている気分だった。
城本がゆっくりと布団に横になる。手を広げて、「ねぇ」とだけ言った。
言われるがまま、腕に包まれた。前に抱きしめられたときみたいに、
俺の背中をしっかりと抱きしめる。あんまり密着するといろいろ怖い。
鼻血が出ないのが奇跡だと思った。俺はまた、唇をくっつけた。
普段どんなにいやらしい妄想ばかりしていても、実際に出来るかと言われたらそうじゃない。
くっついて離して、と幼稚な事しかできないのが恥ずかしかったけど、十分すぎるくらいだった。
「難しいね」城本がくすくす笑う。「全然上手に出来ない」困ったように笑いつつも、俺の口を優しくちゅう、と吸った。
俺もし返すと、うふふ、と嬉しそうに笑う。城本のうなじに手を回して撫でる。ざりざりしてて気持ちがいい。
「くすぐったい…」城本が体をよじる。そんな仕草さえ俺には艶めかしく見えた。
「俺、脱いだ方がいいの?」「え、あ、あー…」恥ずかしそうにそう聞かれ、なんと答えるべきか考えてしまう。
「ぬ、脱がせるのでいいです…」「わ、わかりました」二人してなぜか敬語になってしまった。
着物とか浴衣を考えた人って天才のような気がする。
合わせ目に手を入れて、そっと開いていくと、綺麗な胸元があらわになった。
きめの細かいつやつやした肌が、部屋のぼんやりした明かりに照らされるのが色っぽい。
人差し指で、つう、と撫でると、城本が短いため息をついた。
「俺ばっか恥ずかしい」城本が俺の浴衣の襟に手を入れる。俺の貧相な体を見てどう思うんだろう。
俺の肩から浴衣がはだけて落ちた。「なんか色っぽいね」「お前が言うんだ…」
抱き寄せられ、素肌同士がくっついた。心臓の鼓動が、城本の肌を通じて伝わってくる。
「ねぇ、名前で呼んで」「え、」「城本じゃなくて、柚希って呼んで」
「え、あー…」
「おねがい…」
耳の中に苺ミルクでも注ぎ込むような、甘い声だった。
「柚希、」
震える声で何とか言うと、嬉しそうに笑っていた。
長い脚が、シーツをなぞる衣擦れの音。
また唇が合わさった。大人からしたら、凄く拙いやり取りかもしれないけど、
今の俺にはもう、十分すぎるくらいだった。
こいつが見た、男の人同士でのエッチのやり方というのは、どこまで書かれていたんだろう。
そう思いながら、柚希の腕の中でまどろんでいた。
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