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第4話
要と町を散策したのが、ちょうど一週間前。
水切り競争はビギナーズラックのおかげか要が勝った。槙の投げた小石は八回飛んだが、要が投げた石はなんと対岸まで跳ねて飛んでいったのだ。「先生才能あるよ」と囃し立てた時の、嬉しそうな笑顔がわすれられないでいる。
もちろんあの後、きちんと町の案内も行った。町役場に病院、スーパーから神社まで。ありとあらゆる施設を紹介していたら小さな町とはいえまわりきった頃にはすっかり陽が落ちてしまっていた。「もう遅いしいっしょにご飯食べてきなよ」そう言って牧瀬家と要の四人で食事を囲んだあの日から、要は姿を見せなくなった。
「先生、最近来ないわねぇ」
「……そうですね」
「心配ねぇ」
それからというもの、槙はずっとぐるぐると心配ばかりしていた。
自分が連れ回したせいで風邪を引いたのではないか。好き勝手ばかりした自分のことを嫌いになったのではないか。自分と食事するのが本当は嫌だったんじゃないか。ただの店員と常連の関係のくせに踏み込みすぎたんじゃないか。
悶々と悩む槙を見かねて、結衣は困ったように頬に手を当てた。槙は結衣にとってかわいい息子同然の従業員だ。出来るならお節介を焼いてあげたいと思う。
そう考えた結衣は、ぽんと手を叩いてひとつの提案をした。
「そうだ槙ちゃん、先生に差し入れを持っていってあげたらどうかしら」
「え。な、なんでですか」
「だって先生、きっとお仕事が忙しくてお外に出られないんだわ。それかもしかしたらタチの悪い夏風邪かもしれないし……。先生、たしか一人暮らしよね? ご飯もちゃんと食べているか心配よ」
結衣の言葉に、槙の心は揺れた。なにからなにまで結衣の言う通り、まさに槙が心配していることなのだ。
ふと、朝食を思い出す。ちょうど幸雄が作り過ぎた炊き込みご飯があったはずだ。それのお裾分けだとすれば、なんだか許されるような気もする。
「……分かりました」
これはただのお見舞い。生存確認。決して要に会いたいからとかいう自分勝手な理由ではない。そう自分に言い聞かせて立ち上がる。
結衣の生温い視線を浴びながら、槙はエプロンを脱ぎ捨てた。
槙は一度店から家に帰り、タッパーに炊き込みご飯を詰めたり事情を聞いて心配した幸雄が栄養ドリンクを巾着に詰めて持たせてきたり、祭り屋に寄っておやきを買ったりしてから要の家に向かった。ちなみに住所は事情通のおばさま達からの情報提供だ。彼女達はなんでも知っている。槙の淡い浮わついた思いがバレた日には、きっと商店街中お祭り騒ぎになることだろう。
太陽に照らされて灼熱になったアスファルトの道を歩く。爪先で引っ掛けるように履いたサンダルを蹴り飛ばしそうになりながら、槙は坂を登った先にある古民家然とした建物にやって来た。
玄関の前で、ひとつ深呼吸。この汗は暑さのせいだと言い訳してから、意を決してインターホンを押す。ぴんぽんと気の抜けた音が響いた。
少しの間待ってみても、反応はない。不安になってもう一度押してみたが、返事はなかった。
「先生?」
そっと扉を引くと、抵抗することなくすんなり扉は開いた。鍵はかかってないらしい。不用心だと一瞬思ったが、この町に住んでいる人は大概鍵をかけないことを思い出したので槙はなにも言わないことにした。
「……入るよ?」
忍び足で侵入をする。要の家は古い家特有のどこか懐かしい匂いに満ちていた。それに混じって、要自身の匂いもする。
薄暗い廊下を進み、居間らしき部屋を覗き込むと見慣れた黒髪の頭が床に転がっているのが見えた。それが何かを認識した瞬間、槙は駆け出していた。
「先生っ!」
地面に横たわる要の体を抱き起こす。
こういう時はどうするんだっけ。町の防災訓練では確か意識を確認して、それからどうしたんだったか。そうだ、救急車だ。救急車を呼ばなきゃ。
立ち上がらなきゃいけないのに、動けない。心臓がバクバクと音を立てているせいでうるさくて仕方がなかった。手が震える。ポケットから取り出したスマートフォンが滑り落ちる。早く拾わなくては。
ひとりパニックに陥っている槙がスマートフォンに手を伸ばしたその時、要はぱちりと目を開けた。あまつさえ眠たげに目を擦っている。顔色は悪いが、見るからに健康そうな仕草だ。要は欠伸をしてから、呑気に首を傾げてみせた。
「……あれ、槙さん。どうしたんですか」
「どうしたのはこっちのセリフだよバカ!」
思わず拾ったばかりのスマートフォンを顔面に投げつけてしまったが、槙は自分は悪くないと思う。むしろ要が眼鏡をしていなくて幸運だったなとさえ思った。
スマートフォンを投げつけるだけでは怒りが収まらず、槙は感情に任せて要の肩を何度も叩いた。要は申し訳なさそうに頭を下げるだけで、止める素振りは見せない。
「俺が! どれだけびっくりしたと思ってるの!」
「いやぁ、言葉もないです……。すみません……」
槙はじっと要の顔を観察する。以前会った時よりも少し痩せたのではないか。青白いのは今に始まった事ではないが、もう少しくらいは顔色が良かった気もする。まさか風邪でも引いていたのかと尋ねようとすると、先に要が言い訳をするように口を開いた。
「いやー、原稿が進まなくて気付いたら寝落ちしてました」
「寝るならちゃんとお布団いきなよ……」
そもそも出来れば寝落ちするほど根を詰めないでほしいのだが。
溜め息をこぼす槙を見て、要は首を傾げた。
「そういえば、槙さんはどうしてここに?」
「あ、急に来てごめん。先生が心配で」
ぱちくり、要は黒色の瞳を瞬かせる。その顔を見て、槙はもしかして自分がとんでもない言葉を口走ってしまったんじゃないかと急に恥ずかしくなってしまった。
「ほら! 先生ってだいたいお店に来てくれるから! だから、来なくなったから何かあったのかと思って……」
ついつい弁明が口からついて出てしまったが、言い訳を重ねれば重ねるほどに余計に怪しい。もしかして墓穴を掘っているのではないか。掘っているなら是非とも入りたい。そう思ったところで、要はふわりと微笑んだ。
「ありがとうございます。槙さんの顔を見たら安心しました」
そんなことを言われたら、もう何も言えなくなってしまう。なんというか、ずるい人だ。
槙はむっつりと押し黙っていたが、沈黙に耐えきれずやがてゆるゆると唇を開いた。
「お腹空いてる? ご飯食べた?」
「そういえば、最後に食べたのはいつだったかなぁ」
のんびりと告げられた言葉に、槙は耳を疑った。
「……なにか作るから。冷蔵庫見させてもらうよ」
要は「いや、」だとか「その、」だとか言って見るからに動揺していたが、槙はあえて無視をする。幽鬼の如く立ち上がるとそのままぎろり、鋭い目付きで睨み付けた。自慢じゃないが、槙の目付きは元ヤンかと尋ねられることも多いくらい治安の悪い目付きだ。要の目にはさぞかし恐ろしく映っていることだろう。
どかどか、足を踏み鳴らして台所に入る。台所はピカピカだった。まるでまるっきり自炊していないくらいに。
冷蔵庫を開けると、冷気が一気に流れ込んできた。本来なら冷気を遮るであろう食材は、なにも入っていない。絵に描いたような空っぽ具合だ。
「先生……?」
「いや、その、忙しくて……」
いくら忙しいとはいえ、何も入っていないなんてことがあるのか。一人暮らしなんだから冷凍食品ぐらいストックしておくべきだろう。今の今まで何を食べて生きてきたのか、心配になる。まさか隅っこの隅っこにあるドレッシングを舐めてきたんじゃないだろうな。
ぱたん、冷蔵庫を閉じて居間に戻った。机の上に置いたままのタッパーを回収して、またキッチンに向かう。一応向かう前に、釘を刺しておくことにした。
「先に炊き込みご飯チンしてくる。おやきは食後だからね」
「べつに大丈夫ですよ。おやき頂きますね」
「先生?」
「……はい」
冷蔵庫の上に雑に置かれた電子レンジにタッパーをぶち込み、温めが終わるのを待つ。温めが終わるまでの三分間、槙は台所を物色していた。行儀が悪いと思うなかれ。要がきちんと生活しているかを確認するためには必要な行為なのだ。
食器の類は見当たらない。代わりに割り箸や紙皿が食器棚に入っている。そのエコとは呼べない食器達もあまり減っているようにも見えないが。本当に食事をしているのか不安になったが、台所の隅に弁当の空容器が詰まったゴミ袋を見つけて少し安堵した。確か要の家の近くには個人経営の弁当屋があったはずだ。きっとそこの常連なのだろう。
うちの店だけじゃなくて、他の店でも常連なんだ。そう思うと、槙の心がにわかにささくれ立つの感じた。
いや、ソフトクリームだけ食べていても生きていけないんだから要が他の店に行くのは当たり前だ。それは分かっている。理解できる。
ただ、言ってくれたら幸雄ほどじゃないとはいえ槙だって料理は出来るし、なんならこの前みたいに一緒に食事をすればいいのに。なんて、図々しいことを考えてしまったのだ。ただの店員と常連の関係でしかないのに。
調子に乗るな、と自分の心を戒めたところで電子レンジが温めが完了した音を鳴らす。割り箸を一膳拝借してタッパーと一緒に居間へ持っていった。
「先生、ごはんだよ」
要は机の上にノートパソコンを置いて仕事をしているようだった。いつものふにゃっとした顔と違って、真剣な顔をしている。だけど、槙を見るとすぐに見知った柔らかい表情に変わった。
「ありがとうございます、槙さん。いただきます」
「ん。よく噛んでね」
平常心を装ってタッパーを置く。槙は食事を始めた要を見ていたが、ふと見られていたら食べづらいよなと思い、視線を彷徨わせた。
見付けたのは、床に無造作に散らばった本達だった。躓いたら危ないからと、立ち上がって本を回収して歩く。本はタイトルもジャンルも作家名もバラバラで、やっぱり小説家の先生はいろんな本を読むのだと感心してしまった。槙も本は読むが、だいたい結衣の家に置いてある本を借りているだけだ。しかも暇な時にちまちま読んでいるだけで、きっと読書量では要の足元にも及ばないだろう。
ふと、手に取った小説。そのタイトルにどこか既視感を覚えて、槙は首を傾げた。なんでだろう。こんな表紙の本なんて読んだことはないはずなのに。いったいどこで見たのだろう。
「ごちそうさまでした」
要の声でハッと我に返った槙は、手に取った本をとりあえず積み上げた本の山の上の一番上に置いた。本当なら本棚に戻したところだったが、他人の家で勝手にそこまでするのは気が引ける。
「お粗末様でした」
要は綺麗に炊き込みご飯をたいらげて、デザートにおやきを頬張っていた。ロクなものを食べていない胃には刺激が強いような気もするが、何も食べていないよりはマシだろう。
巾着に空のタッパーを詰め、幸雄のお見舞いの品の栄養ドリンクを取り出して差し出す。要は栄養ドリンクを受け取ったあと、申し訳なさそうに眉を下げた。
「タッパー、洗って返しますよ」
「いいよ、帰って洗うから。ふらふらな人はちゃんと休んでて」
「……はい」
強めに言うと要はしょんぼり肩を落とした。これで反省してきちんと休んでくれればいいのだが。
横目で時計を確認すると、もう要の家に来てから一時間は経ってしまっていた。槙は慌てて腰を上げる。
「ごめん、先生。長々とお邪魔して」
「あ、いえ、寧ろこちらこそすみません!」
仕事が進んでいないというのにいつまでも長居して邪魔するのもダメだろう。
忘れ物がないかを確認して、ばたばた玄関まで向かう。
「それじゃあ。俺、帰るね。ちゃんとご飯は食べるんだよ」
さて帰ろう、としたところで要が槙の手首を掴んだ。ぐん、軽い感覚に目を見張る。
どうかしたのか、何か忘れ物でもあったのか。槙はきょとんと首を軽く傾げ、踏み出しかけた爪先を下ろした。
「……あの、槙さん」
「なに?」
要はやけに神妙な顔をしている。
やっぱり空き腹に炊き込みご飯は重かったのか。そう尋ねようとした槙より先に、要が口を開いた。
「今日はお休みですか?」
「うん? そうだけど」
予想外の言葉に思わず語尾が上がり調子になってしまう。
もしかして、休憩時間にサボってきたと思われたのかもしれない。槙は「サボってないからね」と、ゆるく首を横に振ってみせた。
というか、休みでなくてはなんだかんだ理由をつけて要の家には来なかっただろう。仕事があるから、とかなんとか言い訳したに違いない。
要は何度か深呼吸をしてから、意を決したように唇を開いた。
「…………予定がなければ、もう少し一緒に居てくれませんか?」
一瞬、なにを言われたのか理解出来なかった。ぱちぱち、目を瞬かせる。
理解した途端、目の前の年上の成人男性が可愛らしくて仕方がなくなってしまった。
「なにそれ」
頬をほんのり赤く染めながら、照れ臭そうに告げられた言葉がいじらしくて、槙は息を漏らして笑ってしまった。
未だ槙の手首を握る細い手に自分の手を重ねてみる。熱い。じわじわ汗ばむような熱さをどうやら要は持っているらしい。その熱の意味を考えないよう、槙は冗談めかして言葉を紡いだ。
「先生、もしかして寂しいの?」
「作家とは得てして執筆中は孤独なものですよ」
目を伏せるその仕草すら可愛らしい。これがあばたもえくぼってやつかと槙はひっそり感嘆した。
要はちらちら、不安そうに槙を見つめている。
頼むから、そんな見るからに落ち込んでみせないでほしい。そんな顔をされてしまったら、槙の答えはひとつに決まってしまうのだから。
「いいよ。代わりに本読ませてね」
わざとらしく無愛想な声色で言ったのに、要は瞳をキラキラと輝かせた。その顔をまっすぐ見つめることが出来なくて、ふいと槙は視線を逸らす。
手首が熱い。これは槙の熱か、要の熱か。ずいぶん長い間握られすぎてそれすら分からなくなってしまっている。
さっさと帰らないと、余計に拗らせるだけなのに。内心で冷静な自分が毒を吐いた。そんなの分かっていると、熱に浮かされた自分が反論する。
きっと夏のせいだ。夏が熱いから悪いのだ。そう自分に言い訳して、槙は手を引かれるまま軋む廊下を戻っていった。
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