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第5話

 それから一週間。槙は仕事終わりや休みの日に要の家に行くのがすっかり習慣になってしまった。料理のお裾分けや時には材料を持って、一緒に食べて、原稿をする要を横目で見ながら本を読む時間を気に入ってしまったのだ。  好きな本を読んでいいと言っていた通り、要の部屋はまるで図書館かと思うほど大量の本で埋め尽くされていた。どれも綺麗には並んでいなかったけれど。  要の持っている本は槙が読んだことのない、聞いたこともないジャンルの本もたくさんあって、どれも面白かった。  けれど、要の書いた本を読むことは出来なかった。槙は読みたかったのに要が止めたのだ。「後生ですから目の前で読むのはやめてください」と土下座されてしまえば、さしもの槙も無理矢理見る気は削がれる。結局、ちょっと足を運んで本屋に向かい、自腹で要の本を購入して自宅でこっそり読んだのだが(ちなみにその本屋ではようこそ要先生特集が行われていた)。  要の作品は、どれも面白かった。ジャンルはだいたいミステリーかホラーで、緻密かつ容赦のないおどろおどろしい描写が多い。人は見た目によらないなぁ、なんて槙はすこし驚いたものだ。  けれどその暗い色合いの本が並ぶ中に、ひときわ異質な表紙の本があった。鮮やかな青色の表紙で、中身も要にしては珍しい正統派のラブストーリーだった。夏の海が舞台の、少し抽象的な爽やかな話。この間槙が掃除した時に見付けた本だ。  ネットで調べたところ、要の本の中ではあまり人気ではないようだった。でも、槙はその本が要の作品の中で一番のお気に入りになった。読み終えた時、なんだか気持ちが前を向くような、そんな優しい気持ちにさせてくれたのだ。その本に「サインして」と言い放ち、要を気絶させたくらいには気に入っている。  そんな締め切り間際に気絶して時間を無駄にしていた要も、槙に監視されていると思うと手を休められないため作業効率が上がったらしい。進まないなどと泣き言をぼやいていた原稿も、どうにかこうにか完成した。  無事に原稿から解放されたおかげで、要は悠々と商店街に足を運べるようになった。  槙は、ベンチに腰掛けてソフトクリームを舐める要を見た。幸せそうな顔をしている。例えるなら、花でも飛んでいるような。  槙の視線に気付いた要はソフトクリームから顔を離し、その眩いばかりの笑顔を槙に向けた。 「いやぁ、槙さんのおかげで無事脱稿できましたよ! ありがとうございます!」 「だっこう……?」  聞きなれない言葉に首を傾げる。なんとなく小説関連の言葉なのは分かるが、けれど槙の頭に最初に浮かんだのは痔が悪化して起こる方の脱肛であった。まさか要がいきなり自分にそんな報告をするとは思えない。されても困る。だが、座り仕事だから痔が有ってもおかしくはない。辛さを分かち合って欲しいからこそ自分に報告した可能性もある。どの反応が正解なのだろう。  だらだらと考えて、考えた結果、槙はそっと眉を下げた。 「先生、お尻大丈夫? クッション使う?」 「そっちの脱肛じゃないです。原稿を完成させたってことですよ。なんで僕槙さんに自分の尻が大変なことになってお礼言ってるんですか」 「そっか。そうだよね」  言われて素直に納得した。うんうん頷く。  要が槙に痔の報告をして喜ぶような人じゃなくて良かったと心の底から思う。そうか、原稿が終わったことを脱稿というのか。またひとつ新しい言葉を知れた。要のおかげだ。この生活能力がない人間のおかげで、槙は新しい世界に次々触れることが出来ている。  そう思うとなんだか不思議な気持ちになって、槙はカウンターに頬杖をついて微笑んだ。 「先生、放っておくと死んじゃいそうだね」 「そこまでひ弱じゃないですけど」 「だって甘い物しか食べないし」 「う」 「寝るのも忘れて小説書いてるし」 「うう」  この一週間、一緒に過ごして目についた要のダメなところを指折り数えて挙げていく。言われる度に要の顔が青くなっていくのが面白い。 「俺が見てないとダメだね、先生は」  息を漏らして笑えば、要は顔を強張らせた。その感情は照れなのかはたまた違うものなのか、槙には判断がつかない。言葉を間違えたというのは、なんとなく理解した。要のプライベートに踏み込ませてもらって、調子に乗っていたのだろう。  どこか気まずい空気を払拭するために、槙は話題を無理矢理に変えることにした。 「ねぇ、なんで先生はこんな何にもない街に引っ越してきたの?」  尋ねるのは、前から気になっていた事柄。  この町は確かに良い町だけど、外部からあまり人が定住するような地域でないのも事実だ。店の数は少ないし、遊ぶ場所だって少ない、所謂田舎に他ならない。ゆったりとした雰囲気といえば聞こえは良いが刺激がないのもまた事実。いったい、要はどうしてこの町を選んで引っ越してきたのだろうかと、ずっと気になっていたのだ。  要は少し考え込むように顎に指を当てたあと、イタズラっぽく微笑んでみせた。 「そうですねぇ……。槙さんと出会ったからですかね」 「なにそれ」 「冗談じゃないですよ」  なんの冗談だろうと笑い飛ばそうとした槙を止めたのは、要の声だった。  槙の脳裏に、要と会った記憶はない。こんな甘党の変人で、そこそこ売れっ子の小説家なんて一度会ったら忘れそうもないのに。そもそもこの町に来るまでの槙の世界はひどく閉じていた。家族、クラスメイト、教師。それぐらいしか関わった人間を思い出せない。要のような年上の人間と会話したことがあったら、しかと記憶に焼き付いているだろう。  槙は驚きに目を見張った。 「嘘、いつ?」 「内緒です」  食い気味に尋ねると、要は自分の口元に指を添えて秘密のポーズをした。どうやら教えてくれる気はないらしい。要の様子からして、もしかしたらただの冗談なのかもしれない。  からかわれた、と不満げに唇を尖らせた槙を見て、要は手を伸ばす。伸ばした手は、槙の頭に吸い込まれていった。抵抗する間もなく、ゆるゆる、頭を撫でられる。 「先生のばか」 「すみません、槙さんが可愛いからついからかいたくなってしまって……」 「なにそれ」  あからさまな子供扱いに唇を尖らせて不満を表明した。いくら槙でも、もう可愛いなんて言われて喜ぶ年ではないのだ。 「可愛いなんて見た目じゃないでしょ」 「可愛いですよ」  なのに、要がいつもの調子で何度も可愛いと言うものだから不満を通り越して恥ずかしくなってきてしまう。槙はふい、と顔を逸らして目を合わせないようにした。  要はくすくす笑いながら、飽きることもなく槙の丸い頭を撫でている。 「例えば、すぐ赤くなる耳とか。綺麗な髪とか」 「……からかわないでよ」 「本気だ、って言ったらどうします?」  要の黒い瞳は、レンズ越しに真剣な素振りで力強く輝いている。  気が付いたら、槙と要の顔は随分近くにあった。まるで、キスするみたいだ。そう思ってしまったが最後、急に恥ずかしくなって要の顔を見ていられなくなった。なのに要は槙をじっと見つめてくる。それ以上見つめられたら穴が空いてしまいそうだ。堪えきれずに槙は目を瞑る。  変な空気が二人の間に流れているのを、槙は自覚した。甘いような、ぬるいような、体がぞわぞわする変な空気だ。  その空気に呑まれてしまって、もうどうにでもなれと思った瞬間。賑やかな声が響いた。 「おい槙! 今日こそ勝負するぞ!」 「陸!」  目を開けると、学ランを着た少年が槙を指差していた。キッと吊り上がった黒色の目が勝気な印象を与えている。もう子供達は夏休みだろうに、制服を着ているところを見るに補習でも受けていたのだろう。  槙と要は慌てて距離を取る。如何にも不審な挙動だったが、少年は気にした様子も見せずに槙を見つめていた。  変な雰囲気が霧散したことに安堵し、槙は突然の乱入者を要に紹介してあげることにした。 「先生。あれが陸、例のクソガキ」 「いっつも勝ち逃げしやがって……。今日は絶対オレが勝つからな!」 「見てわかるでしょ。仕事中。遊びに行ってる暇はないの」  あからさまに気怠げな口調で告げると、陸は拗ねたように舌打ちをする。それから、要の姿を見付けるとぎろりと睨みつけた。要は身を竦ませる。いくら陸の目付きが悪いとはいえ、自分よりも五つは下であろう少年に怯えるのは如何なものなのか。 「……槙、こいつ誰だ」 「桐子ちゃんから聞いてないの? 例の先生だよ」 「お前が、姉さんの言ってた先生……!」  町で噂の新入りだと気づいたや否や、陸は要の腕を掴んだ。 「おいお前、勝負するぞ!」 「な、なんでですか」 「うるさい! お前なんかに槙は渡さないからな!」 「ちょっと! ま、待ってください!」  抵抗しようにも運動部の現役中学生の陸と運動から遠ざかった成人男性の要では悲しいことに力の差がありすぎる。  ずるずる。引きずられていく要に、槙はひらひら手を振った。 「行ってらっしゃーい。怪我はしないでよー」  要に知り合いが増えるのは良いことだ。陸も悪い子ではないし、桐子同様人懐っこいしきっと仲良くなれるだろう。絶賛反抗期真っ只中なのが気にかかるが。まぁ、大丈夫だろう。そう楽観的に思った槙は、軽く伸びをした。ついでに欠伸もひとつ。  さっきの要は、少し暑さで頭がおかしくなっていたんだろう。そう無理矢理に結論付けて、槙は努めて忘れることにした。 「……さて、コーンでも焼くかな」  話し相手がいなくなってすっかり暇になってしまった。今日は人通りも少ないし、もしかしたらもうお客さんが来ないかもしれない。  なんだか本を読む気にもなれなくて、槙はワッフルメーカーに手を伸ばした。  牧瀬の店は最中で出来たコーンではなくワッフルコーンをせっせと焼いて使っている。材料を混ぜて、それをワッフルメーカーで焼いて、冷めないうちに円錐状の器具でくるりと巻けばみんなが思い浮かべるワッフルコーンの出来上がりだ。  ただ、ストックはまだ残っているから別に今急いでこなさなければならない仕事でもない。そうと分かってはいるが、何もしないでいるのもバツが悪かった。  さてワッフルメーカーの電源を入れようとしたところで、裏から物音がひとつ。なんだろうと首を捻る間も無く、結衣が表と裏を分けるのれんを手で払いながらやって来た。 「槙ちゃん、今お暇かしら」 「店長」  槙は慌てて伸ばしていた手を下ろす。それから、のんびりと笑う結衣につられて軽く微笑んだ。  結衣は今日裁縫屋のバイトが休みだったらしく、出勤する槙にひょっこりついて来たのだ。ついて来たからと言って、特に何をするわけでもないのだが。今の今まで裏で趣味の刺繍をやっていたはずなのに、何か用事でも思いついたのだろうかと槙は首を傾げた。 「どうしたんですか。珍しいですね」 「ちょっとソフトクリームが食べたくなっちゃって。ふたつ貰ってもいいかしら」 「そんなに食べたらお腹壊しますよ」 「いやねぇ。一つは槙ちゃんの分よ」  のほほんと言ったかと思えば、口調に似合わない俊敏な動きで結衣はあっという間に二つのワッフルコーンにソフトクリームを乗せてみせる。差し出されたそれを受け取らないわけにはいけない。槙は渋々ソフトクリームを受け取った。 「はい、どうぞ。たまにはゆっくりしましょう」 「いつもゆっくりしているような気もしてますけど……」  ベンチに二人並んで腰掛ける。開け放たれたままの扉から吹き込む風が涼しくて心地よい。  槙は噛み付くようにソフトクリームを口にした。一口が大きい。溶ける前にさっさと食べてしまおうと思ったのだ。  結衣は槙がソフトクリームを食べる姿をにこにこと楽しそうに眺めている。その子供を見るような優しい目は恥ずかしいので止めていただきたい。 「おいしい?」 「……おいしいです」 「それはよかった」  問われた言葉に、嘘を吐く理由もないので槙は素直に頷いた。  ソフトクリームは、冷たくて甘い。幸雄が配合しているソフトクリームミックスはシンプルに美味しい。牧瀬の店のソフトクリームは牛乳の風味が濃い気がする。好き嫌いの別れそうなどっしりとした甘さだ。だけど槙は、この味が好きだった。  二人の間に穏やかな沈黙が訪れる。蝉の声と風の音だけの世界は、なんだか時間がいつもより遅く流れているような気がする。もちろんそんな気がしているのは槙だけで、実際のところまったりしていてはソフトクリームは無常に溶けていってしまうのだが。 「ところで槙ちゃん」 「はい?」  ゆったりと仕草でソフトクリームを舐めていた結衣は、唐突に槙の名前を呼んだ。  槙は視線を結衣に向けたまま、ワッフルコーンを齧る。砕いた破片を更に奥歯で粉々にして飲み込んだ。その様子を見届けてから結衣は、やはりゆったりと唇を開いた。 「いったいいつになったら先生に告白するのかしら?」 「っこ、は……っ⁉︎」  その言葉を言われたのが、コーンを飲み込んだ後で良かったと心底思った。そうでなかったらきっと吹き出してしまっていただろう。それでもコーンの欠片が気管に入って若干咽せた。  咳き込みながら、結衣の放った衝撃的な言葉の意味を脳内で必死に理解しようと努める。だけど、どんなに考えたって告白の意味はひとつしか考えられなかった。 「隠さなくてもいいのよ。店長はなんでもお見通しなんだから」 「ち、ちが……っ! 違います! 先生とはそんなんじゃ……っ!」 「あら、槙ちゃんは好きでもない人のお家に入り浸ってるの?」 「い、いや、それは友達としてで……!」  好き、という単語につられてつい先ほどの出来事が頭を過ぎる。槙は間近に迫った要の真剣な顔を思い出して、顔を赤らめた。  たしかに槙は誤魔化しようがないほど暇が出来れば要の家に入り浸っている。だが、普通の友人なら家に行き来するくらい普通のことなんじゃないだろうか。まともな人間関係を構築してこなかった槙にはその普通すら分からない。  槙が要に感じている、ふわふわと地に足がついていない状態で曖昧なままにしている感情。まだはっきりさせるのがこわくて、認めるのを先延ばしにし続けている。結衣に指摘されたら、自分はどうなってしまうのだろう。ソフトクリームを持つ手が震える。  どう言い訳をして取り繕おうかと頭を抱える槙を見て、結衣は落ち着かせるように柔らかく微笑んだ。 「私、嬉しいのよ」  鼻歌でもうたうみたいな調子で言われた言葉に、どんな顔をしていいのか槙は少し悩む。いったい何が嬉しいのかと怪訝な顔をする槙に、結衣は続きの言葉を口にした。 「あんなにぼろぼろだった槙ちゃんが、たとえ恋愛としてでも友愛としてでも誰かを好きになれたってことが。私とっても嬉しいの」  茶色の瞳は、淡い光で揺れている。その目に宿る優しさを疑うほど槙は冷たい人間ではない。いや、槙を誰かの優しさを感じ取れる人間にしたのは他ならぬ結衣のおかげだ。  結衣はいつの間にかソフトクリームを食べきっていて、空いた手をそっと槙の背中に置いた。 「あなたがどんな選択をしてもいいの。傷ついて帰ってきても受け入れてあげる。あなたのお家はここにあるのよ」  槙の優柔不断な心を見透かしたような、優しい言葉だった。  じわじわ、槙の灰色の瞳を涙が覆う。  そんなに優しくしないでほしい。自分は、誰かから無条件で優しくされていい人間などではないというのに。どれだけ優しくされても、過去の傷跡が幸せになってはいけないとでも言うように疼くのだ。傷跡のせいで、槙は結衣の優しさにも要への感情にも向き合えないままでいる。もう体の傷は塞がったのに、槙を虐げる人などこの町にはいないのに。それでも槙は呪いに怯えている。  潤んだ瞳を見て、結衣は悲しげに眉を下げた。背中に添えられた手に、力が籠る。 「ねぇ、槙ちゃん。あなたを思う私の気持ちは出会った時からずっと変わらないわ。それを忘れないでちょうだいね」  さらにトドメのダメ押しをされて、あわや涙が落ちるというタイミングで結衣がイタズラっぽく声をあげて笑った。 「ところで槙ちゃん、ソフトクリーム溶けてきてるわよ」 「えっ、あ……っ!」  手元を見ると、ソフトクリームはどろりと溶ける兆しを見せ始めていた。既に垂れた一筋がコーンを伝って手を汚している。  慌てて残っていたソフトクリームをコーンごと頬張る。冷たいものを一気に食べた時特有の頭痛を味わいながら、槙は結衣とはじめて出会った日のことを思い出していた。

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