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第6話
最低最悪を描いた絵画が有るとしたら、それはきっと自分の人生のようにどろどろと腐ってどうしようもないものになるのだろう。なんて思いながら槙は重たい足を動かし続けていた。歩く度に新鮮な傷が服に擦れて痛んだが、足を止めるわけにはいかない。自分は、兄の死を利用して両親の元から逃げてきたのだから。
狭いアパートの一室。ゴミの積まれたワンルーム。気まぐれに与えられる菓子パンが生命線。風呂になんて入れてもらえず、小汚い姿のまま転がされる。それが、幼い頃の槙の日常だった。
親は典型的なヤンキー上がりの頭の悪い人だったと今になって思う。大声で怒鳴ることと高圧的な態度を取ることが生き甲斐の、しょうもない人だった。ギャンブルに夢中で、槙の世話などしたこともない。興味がないなら生まないでくれればよかったのに、そう何度思ったことか。
槙は親の機嫌が悪ければストレスの捌け口にと暴力を振るわれ、働ける年齢になれば働かされ、給料は当然のように両親の懐に吸い込まれた。おそらく、槙は彼らの丁のいい道具だったのだろう。
自我が確立していない頃はそんな生活も苦ではなかったけれど、自分の家と周りの家が違うのだと気付いた瞬間から槙にとってこの世は地獄そのものに変わった。
辛いと思ったことは何度もある。死にたいと思ったことも。それでも生きてこれたのは、唯一の味方がいたからだ。
幼い頃から槙の味方は、二つ年上の兄だけだった。本来槙と兄を守るべき存在であるはずの両親は、兄弟を搾取するだけで一度も守ってくれたことはなかった。だから、手探りで自分の世話を必死にしてくれる兄の姿は槙の目にまるで神様のように映っていたのだ。
年頃にしては小柄な槙がこの歳まで死なずに生きてこられたのは、兄が守ってくれていたからに他ならない。槙に振われる暴力を庇い、槙よりも働き、自分は行けなかったのに高校にだって行かせてくれた。槙は優しい兄が好きだった。大丈夫だと頭を撫でてくれる兄が好きだった。兄が居たから、痛みばかりの人生にだって耐えられた。
そんな兄は、槙を守って死んだ。
高校卒業の日。就職の内定も決まってもうこれで兄にだけ負担を強いることはなくなる。そう思って走って家に帰った槙を待っていたのは、首を吊った兄の死体だった。
兄の体は既に冷たくなっていて、手遅れなことは誰の目から見ても明らかだった。
あまりの非現実的な光景に悲鳴すら出ない。全身の血管が開き、心臓が凍るような心地に陥る。息が上手く出来なくて、槙はその場に崩れ落ちた。ふと、兄の足元に一枚の紙切れと封筒が落ちていることに気付く。
震える手で拾った紙切れには「逃げろ」とだけ書かれていて、封筒には兄が両親に隠れて貯めていたお金が詰まっていた。
いったい、このお金を貯めるまでにどれだけの苦労をして来たのだろう。どれだけの絶望を隠してきたのだろう。
文字を理解した瞬間、ぎこちない体を引きずって槙は走り出していた。行く宛などない。だけど、兄の死体を見つけた両親は激昂して槙を甚振るだろう。そうしたら死んでしまうかもしれない。死んだら、兄の最後の願いを守れない。それは、ダメだ。鈍く痺れる頭でそれだけは強く思った。
視界が滲む。見つかる前に早く走らなければと思うのに、前日に踏みつけられた足は上手く動かないし、殴られて腫れた瞼のせいで視界も狭い。だけどどうにかこうにか駅まで辿り着いて、生まれて初めて切符を買って、電車に乗って、全く知らない名前の町へと逃げ出せた。
揺れる車内で思うのは、兄の最期の姿。苦しそうに目を見開いた顔が一瞬のうちに網膜に焼き付いたらしく、もう笑った顔も思い出せない。あんなに守ってくれたのに、死んでまで面倒を見てくれているのに。自分はなんて薄情な人間なんだろうと電車で泣く槙に、ふとハンカチが差し出された。かき氷の刺繍が施されたハンカチを差し出したのは、栗色の髪の女性。彼女は丸い瞳をさらに丸くして、心配そうに眉を下げた。
「あらあら、貴方いったいどうしたの。ソフトクリームはお好き?」
あまりの脈絡のない言葉に、聞き間違えかと思った。
じとじと泣く不審な自分に訪ねるのが何故ソフトクリームが好きかどうかなのだろう。槙は思わずハンカチも受け取ることも出来ずに固まった。
それでも女性は気にした素振りもなく、柔らかな笑みと共に言葉を続ける。
「悲しいことがあったの? うちのソフトクリームは美味しいから、食べたら悲しい気持ちが少し遠くにいってくれるかもしれないわよ」
ぽん、膝にハンカチが乗せられる。次いで、ぎゅっと手を握られた。あたたかい手だ。そこでようやく槙は、今の今まで自分の体が冷え切っていたことに気が付いた。
「だから、行く場所がないなら一緒に来てくれないかしら」
驚きに目を見張った灰色の瞳から涙が一筋落ちる。どうしてだろう。成分は同じなはずなのに、なんだかさっきまでとはどこか違う涙だった。
槙は差し出された手を取るかどうか逡巡し、それでも恐る恐る手を伸ばした。
「それじゃあ、一緒に海鳴町へ行きましょう」
それが、結衣との出会いだった。
結衣に連れられて海鳴町へ着いた後はそれはもう大変だった。まずは病院に運ばれ、その次は服屋だなんだと連れ回され、槙は目が回る思いだった。
町に来たばかりの日々は本当に目まぐるしくて、そんな慌ただしい日常の中でみんな槙に優しくしてくれた。生まれて初めて自分が居ても許される場所が出来たと、槙は町に来て一週間目の日に少し泣いた。
お腹がはち切れるんじゃないかというぐらいに食事を詰め込まれ、あたたかいお風呂に入れられ、怪我に包帯を巻かれるうちに、槙の心は少しずつ癒えていった。結衣にも幸雄にも心を許せるようになった。
だけど、それでも槙は、心の奥底にずっと兄への罪悪感を抱えたままでいる。
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