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第10話
スワローは咥え煙草で料理をする。
行儀悪く冷蔵庫の扉を蹴り閉め、薄力粉とベーキングパウダーと牛乳と砂糖を適量ボウルにぶちこんで片手で器用に卵を割る。卵を投入後、中身をよくかきまぜる。攪拌して粘りが付き始めたのち、あらかじめ油を引いて熱したフライパンにゆっくりと円状にたらしていく。
ラジオが陽気な音楽を垂れ流す。
ジーンズの腰に巻いたエプロンを揺らし、つまさきでタップしてリズムを刻む。無造作に伸びた髪は頭の後ろで一本に束ね、輪ゴムで括っている。
小気味よく拍子をとりながらフライパンを傾げ、生地を薄く均等に伸ばす。
気泡が立ちはじめ、香ばしい狐色に変わり始めたらもう一段注いで層を重ねる。
ノイズが混ざって音楽が途切れる。
舌打ち一回、テーブルにのったラジオを荒っぽく平手で叩く。
ブツ切りの音楽が再開され、スワローはシラケる。
「さっすがピジョンが組み上げたポンコツ。ガラクタ同然だ」
キッチンに美味しそうな匂いが漂い始める。
裏面にフライ返しを入れて軽快にひっくり返す。宙で一回転したパンケーキをフライパンで華麗にキャッチ、手首を軽く撓らせテンポよくそれを繰り返す。
大胆なパフォーマンス。
宙を舞って見事に着地するパンケーキ。
この場にギャラリーがいたら拍手喝采に違いないがスワローは冷めたものだ。だれかに披露したり絶賛されるのが目的で料理してるわけじゃない、好きや嫌いの括りで考えたことすらない。母子家庭の倣いで小さい頃から分担してきたので自然と技術が向上したまでだ。
スワローはつまらなそうにパンケーキのタネを伸ばし広げる。
ここの所ピジョンに炊事を押し付けていたので台所に立つのは久しぶりだ。パンケーキを作るのに至っては何年ぶりだろう。なにかにつけもたついて要領が悪いピジョンとは違い、スワローはなんでも要領よく片手間にこなす。料理ひとつとっても手際が段違いだ。
女を落とすにはまず胃袋を掴む。
完成したパンケーキを皿に移しながら、スワローは模擬戦の顛末を回想する。
結果はピジョンの勝利だった。
ぶっちゃけ大いに不満だが、すべてが終わった後にぐだぐだケチを付けても虚しいだけだ。スワローとてその程度の分別は育っている。
どれだけ納得できない形でも敗けは敗け、ならば潔く認めるしかない。そんなの知るかとめちゃくちゃに暴れてしらばっくれても元の木阿弥の堂々巡り、ピジョンは相変わらず意気地なく逃げまくってずるずると先延ばしにする、だったらスワローが兄の分までビシッとキメるしかない。今度はスワローが母へ切り出すのだ。
「最初からこうすりゃよかったんだ。簡単なこった」
小声で言ってみる。半ば自分に言い聞かせる響きだ。
煙草の穂先から白い灰がぱらつきスニーカーの先端に塗される。
ピジョンはてんで頼りにならない。兄貴のくせにとんだ泣き虫弱虫、度胸も根性もないときた。ほとほと愛想が尽きる体たらくだ。アイツに任せておいたら正味埒があかない、最初から俺が買ってでりゃ話はあっさり纏まったんだ。
甘い匂いが漂う台所でパンケーキを焼く。
フライパンを持つのとは反対側の手が、無意識に唇をなぞる。
「あんな色気のねェキス生まれて初めてだぜ」
あんなのキスのうちに入らねぇ。お互い余裕がなさすぎた、前歯がかちあって興ざめだ。
求愛行為にすら届かないお粗末な救命行為……いや、それ未満だ。
絞めながらキスして、一体何がしたかったんだアイツは。助けてえのか殺してえのかどっちだ。生かさず殺さずの拷問なら手が込んでる。ピジョンの考える事は時々スワローの発想を飛び越えている。
おかげで、馬鹿みたいに動揺しちまった。
「…………」
柔い唇の感触を反芻、人さし指で触れたまま物思いに暮れる。
まさかあっちから仕掛けてくるとは思わなかった。
心の準備もへったくれもない、完全に不意を衝かれてしまった。互いの口腔の酸素を貪って、奪われては奪い返し、獣の交尾さながら激しく絡み合った。
キスは初めてじゃない。アレより過激な事はいくらもしてる。なのにピジョンに唇を塞がれた瞬間、思考が吹っ飛んで空白が生じた。唇を起点に全身に甘い痺れが走って、窒息の苦しみすら一瞬忘れてしまった。生娘みたいにウブい反応に自分でも呆れる始末だ。
あんなに嫌がってたじゃねえか。
全力で突っぱねてたじゃねえか。
『兄弟でキスなんて絶対おかしい、間違ってる』
『そんな不自然な行為、神様がお許しにならない』
反則だろ、あんなの。
仕掛けるのは必ず自分からと心に決めていた。ピジョンに下剋上されるなど断固としてプライドが許さない。
この俺様がなんだってあのヘタレへなちょこにヤられなきゃならない?
兄貴のくせに生意気だ、攻めに回ろうなんざ一世紀早い。
ピジョンはウブで奥手だ。
キスは未熟でドへたくそだ。
そんなヤツにマウントをとられ、まんまとしてやられてしまった……
「くそったれ!!」
「コケ―ッ!!」
腹立ち紛れにシンクを蹴飛ばす。騒音に驚いたのか、キャサリンがうるさく羽ばたいて駆け回る。
経験値なら俺が断然上なのに。
テクなら圧勝なのに。
オンナとろくに付き合ったこともねえ童貞のへたくそなキスで敗北に追い込まれた事実がひどく腹立たしい。
「~いっそ絞め殺してやりゃよかったんだ」
何で手を止めた?
土壇場で躊躇った?
手加減なしでいくと宣言したのは俺じゃねえか。
スワローはとにかく死に物狂いで、早くちぎれろと限りなく憎悪に近い一念を込めてピジョンの鎖を引っ張り続けた。実際ピジョンが妙な真似をしなければスワローが勝ちを掴んでいた、あの状況ではより体力がなく場慣れしてないピジョンの方が詰んでいたのだ。
だからこそ、ピジョンがとった行動は完全に予想の範疇外でうろたえた。
アイツはこともあろうに自分が生きるか死ぬか壮絶な苦痛を味わってる瀬戸際で、その苦痛を与える張本人に息を吹き込んで助けようとしたのだ。
そのくせ鎖を掴む手は意地でも離さず、お前は俺の物だと宣言するよう執念深く縋り付き続けた。
それはスワローも同様だ。兄に空気を分け与えられ、その口を夢中で貪り息を繋ぎながら、指に食い込み締め付ける鎖を引っ張り続けた。
『お前は俺のものだ』
『お前は俺のものだ』
まるで互いに手錠を噛ませて主導権を奪い合うような行為。無理心中に似た命のとりあい。
キスなんて、アイツからせがんでこなきゃ意味ねえんだ。
アイツのほうから痺れを切らしてねだってこなきゃ何の意味もねえんだよ。
狂おしく求めてやまないモノが漸く与えられても望むカタチじゃなければ価値を貶められた気がする。
スワローは常に主導権をとりたい、兄を暴力と快楽で服従させたい。中途半端な優しさに服従させられるのは不本意だ。
灰と化した穂先が脆く崩れ、無意識に煙草の吸い口を噛み締めていた事に気付く。
コンロの摘まみを回して火を止め、用が済んだフライパンを置く。流れるような動作でエプロンを取り外して椅子の背凭れに掛け、髪を束ねていた輪ゴムを抜く。一斉に散らばった毛先が無数の安全ピンを刺した耳とすべらかなうなじを覆い、首まわりの痛々しい痣を隠す。
前髪越しの眼差しは暗く鬱屈し、への字にひん曲がる口元に苦渋が浮かぶ。
「……あんな子どもだまし、認めねぇかんな」
どんなテクニシャンとの経験も比較にならない、窒息の瀬戸際で残り少ない空気を貪るキスが最高に刺激的だったなんて。
直接注ぎ込まれた空気と唾液を脳髄が痺れるほど甘く感じたなんて、認めたくない。
「ココココココケコーッ」
「邪魔だ出てけオーブンにぶちこんで丸焼きにするぞ!」
「キャサリンにひどいことするなよ!」
トレーラーハウスの入口から噂をすればピジョンがひょこっと顔を出す。キャサリンに当たる弟に抗議し、懐に逃げ込んできたキャサリンをモッズコートで包んで庇い立てる。
上向けた小鼻をすんすんと蠢かせ、呟く。
「……パンケーキ?」
「ああ」
「俺の分は?」
「ねえよ」
ピジョンがこの世の終わりのような顔をする。食い意地張りすぎだろ?
「料理中に煙草を喫うなって言ったのに……衛生面で感心できない」
「ニコチンは隠し味」
「寿命が縮む。俺のご飯は?」
ボケ老人のような世迷言をくりかえすピジョンの頭めがけ、テーブルの端っこにのったシリアルの箱を豪速でぶん投げる。
狙いは的中、額に直撃をくらったピジョンが大きく仰け反る。
「それでも食ってな」
「せめて牛乳付けろよ!」
「頭からぶっかけてやろうか?」
「ひどい手抜きだ……」
赤く腫れた額を哀しげにさすり、もう一方の手でシリアルの薄片を摘まんでぱりぽり齧る。当然生だ。
シリアルの箱と牝鶏を抱きこんで「あ、これおいしい」と呟く兄にドン引き、軽蔑しきった眼差しを叩き付ける。
地面にぶち撒ければいちいちしゃがんで拾って食うに違いない。試してみたい悪戯心が疼くが優先事項があるので我慢する。
いかにも侘しそうにシリアルをぱりぽりやるピジョンに背を向け、焼きたてパンケーキを盛り付けた皿を母のもとへ持っていく。
入口の段差を通り過ぎる時、ピジョンがすくいあげるようなジト目でくどく念を押す。
「約束は守れよ」
「テメェと一緒にすんな。ビシッとキメてくっから見てろ」
「あっち!?おいバカ火傷するだろ、コートに燃え移ったらどうするんだ!!あ~あまた焦げ目が増えた……」
段差に顎をのっけて見上げるピジョンへわざと煙草を弾く。降り注ぐ灰を慌てて払い落とす兄を一蹴、料理中からずっとひきずっていた悩みに強引に結論付ける。
要はアレだ、首を絞めながらセックスすると気持ちいいってのと同じ理屈だ。鎖がキツく食い込んで喉が圧迫された状態でキスされたら誰だってぶっとんじまうんだ。
ピジョンが特別上手かったとか、俺が感じやすかったとかじゃ絶対ねえ。
この俺がキス一個でどうにかなっちまう位、アイツにぞっこん惚れこんでるなんてあってたまるか。
涎をたらしそうに物欲しげな顔でスワローを……正確にはその手中のパンケーキを見送るピジョンの存在は完全無視、境界線を越えて母のテリトリーに踏み込み、カーテンを閉め切ったベッドの前で深呼吸する。
俺はピジョンのような腰抜けとは違うと証明してやる。アイツが百回連続で失敗することも一発楽勝だ。スワローは精一杯愛想よい笑顔と心がけ、カーテンの向こうの人物に尋ねる。
「母さん、ちょっといい?」
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