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第13話

ピジョンは激怒した。 「どーしてそういう大事なこと最初に言わないんだよ母さん、でてたったあとにフォローしたって手遅れだろ!?」 「ど、怒鳴らないで~だってピジョンが聞いてくれなかったんじゃない、ママが口を挟む隙なんてなかったし」 「弟が母親のベッドにナイフを刺してるんだ、誰だって誤解するさ!むしろあの状況で他の好意的な解釈ができたら知りたいよ、パンケーキにナイフ刺して食べようとしたとか無理あるだろ!」 嵐が去ったあとのベッド周りは酷い有様だった。 皿はひっくり返りパンケーキは無惨に潰れ、切り裂かれたマットから大量の綿がとびだし、強盗現場の惨状を呈す。 蹴り飛ばされて痛む腹を抱えてトレーラーハウスに這い上がり、足を引きずるよう母のベッドまでやってきたピジョンは詳しい事情を聞く。 ピジョンは優しく穏やかな気質の持ち主で滅多に母に反抗などしない、弟に虐められても仕返しなど考えず泣き寝入りする一方だ。 そんなピジョンが完全に度を失い顔真っ赤で喚き散らすのを見、事態の深刻さを理解した母があたふた弁明を図ったのは、スワローが騒々しく出奔した後だ。 「アイツはなんなんだ、前々から馬鹿で滅茶苦茶やるアホだとは思ったけど遂に越えちゃいけない一線を越えたな、俺に手を出すならまだガマンできる、でも母さんはダメだ、そんな親不孝言語道断だ、永久追放だ!」 「スワローはあなたを守ろうとしたのよ」 「え?」 耳を疑った。最初は何を言ってるかわからなかった。ベッドを切り裂く行為とピジョンを守る目的に接点があるのか? 母のたどたどしく掻い摘んだ説明を聞いて、思考停止状態の頭に状況がしみてきた。 ベッド周りの床に散乱する綿と羽毛を眺めまわし、ピジョンは母の証言と現場の状況とを擦り合わせる。 母曰く、スワローは悪くない。 ピジョンはあきれ返って語気を尖らせる。 「そうやってまた庇ってるんでしょ、ホントにお人よしなんだから……ナイフ向けられてもまだ懲りないの?」 「違うの、ホントに誤解なの。ねえピジョンをママの話よく聞いて。ナイフを抜いたのはスワローにも考えあってのことなのよ」 「刺されそうになったのに!?」 「だからそれが誤解なの。アレはスワローなりのデモンストレーション、これっぽっちも殺意はなかったって断言するわ」 「どんな理由があったって母さんにナイフを向けただけで言語道断だ!」 ピジョンは母を絶対視している、それはスワローも同じだと思っていた。いや、今の今まで思い込んでいた。 十代半ばの若い身空で二人を産み、体を売りながら苦労して育ててくれた母さん。 その本人にナイフを向けるなど絶対にあっちゃならない、脅しだろうが気の迷いだろうがどんな地雷を踏まれてもやっちゃいけないことだ。 それでなくても女子供に暴力を振るうなど最低だとピジョンは結論付ける。 ベッドに起き直った母が物憂く沈んだ瞳で怒り狂う息子を見詰める。 「スワローはちゃんと話してくれたわ。あなたと二人で賞金稼ぎになりたいって」 「!」 「珍しくパンケーキを焼いてくれたから裏があるとは思ってたけど……甘いもので女の胃袋掴もうだなんて、あの子もかわいいとこあるじゃない」 「それで……?」 「本当にやっていけるか、覚悟を聞いたわ」 無軌道で無鉄砲、計画性の皆無なスワローが賞金稼ぎとして自活できるか母は尋ねた。 賞金稼ぎの収入は不安定で危険も多い、殺し殺されが日常茶飯事だ。ベッドの上で安らかに死ねる確率はとても低く、家族の死に目にあえないこともある。突然の告白に動揺し、息子の覚悟を問い質した母の行動は間違ってない。 が、スワローがキレるポイントはまだ見付からない。 いくらスワローが理不尽を極めたヤツでも、母に食ってかかったことは一度もないのだ。 「アイツなんで怒ったの?」 「お兄ちゃんに何かあったらどうするって聞いたからよ」 「どう答えたの?」 母は静かに顎を振り、ナイフが深々と抉ったマットの裂け目を示す。 「あなたに手を出すヤツはみんなこうしてやるって」 「…………」 ベッドの足元に立ち尽くし絶句。開いた口が塞がらないピジョンはこめかみを押さえ、スワローの短絡的な行動を遡って分析する。 「え?待ってストップ、一旦整理する。母さんは俺になにかあったらどうするって聞いた。それを聞いたアイツはブチギレて、兄貴に手を出すヤツはみんなこうしてやるってナイフをベッドに刺した。OK?」 「OK」 「……ベッドを刺す意味ある?」 最大の疑問点はそこだ。 おずおずと確認するピジョンに、母は大真面目に頷いてみせる。 「スワローの中ではあったのよ」 「口で言えばいいじゃないか」 「スワロー恥ずかしがりやさんだから……自分のやってることがよくわからない位興奮してたのかもね」 ピジョンの冷静な指摘を受け、母はスワローを擁護する。 「だからね、スワローは悪くないの。無神経なこと聞いたママが全部悪いの。あの子を下手に刺激したから……」 母はしょんぼりして自分を責める。 確かに一理ある。母がピジョンを引き合いに出したからスワローは平常心を失いナイフを抜いた、ナイフをベッドに突き立て意志表明する暴挙に出た。 それが真相なら今回ばかりはスワローを一方的に責められまい。 「だってそんな……、むちゃくちゃじゃないか」 言葉が続かない。ピジョンは虚しく口の開閉をくりかえす。 そう、スワローの行動原理は無茶苦茶だ。 母の言い分が事実だとしても、ナイフを抜く意味と必要は断じてなかった。 兄貴は俺が守ると、口で証立てれば済む話だったのだ。 「あ……」 俺は大馬鹿野郎だ。 アイツがそれじゃすまない性格だって、一番近くにいて一番よく知り抜いてるのは俺自身じゃないか。 「そうよ、無茶苦茶よ。ママもびっくりしちゃった、いきなりナイフで刺すんですもの、心臓吐きそうになっちゃった」 大袈裟にネグリジェの胸をなでおろし、諦念と愛おしさとが相半ばする包容の笑みを浮かべる。 「でもそれがスワローよね」 それが、それでこそスワローだ。 なんでも余裕でこなすように見えて事実その通りで、ピジョンに厄介なコンプレックスを植え付けるだけ植え付けて、だけども肝心な場面では言葉足らずで、自分の気持ちを上手に説明できず空回りしばしば過激な行動にでる。 スワローは衝動と本能で生きている。 従ってしばしば荒れ狂う感情に言葉が追い付かない。 傍から見ていくら唐突な行動でも、本人の中では筋が通っていて譲れない理由がある。 今までもずっとそうだったじゃないか、忘れたのかピジョン。 忘れるもんか、物心付いてからずっとアイツの短絡な悪癖に悩まされてきたのだ。 物事を深く考えすぎるのがピジョンの長所にして短所なら、物事を深く考えないのがスワローの長所にして短所だ。 似てない兄弟は長所と短所すら対極だ。 アイツはきっと言葉だけじゃ自分の気持ちを証明するのに足りないと思い余って、ナイフを振り上げたのだ。 「~なら最初からそう言えよ」 言わせなかったのは誰だ?俺じゃないか。自己弁護の猶予など与えず、ただちに縁を切った。 弟が暴走の末母に危害を加えようとしたと思い込んで手酷くなじった、あの時のスワローの顔は瞼裏にはっきり焼き付いている。 驚愕と失望が入り混じった形相……兄に裏切られた絶望の相。 最初から信頼されてなかったのだと先走って、アイツは家をとびだした。 「どうして極端から極端に走るんだ?マットレスこんなめちゃくちゃにして、後始末はどうするんだよ?掃除だって大変なんだぞ、綿をかき集めてまた押し込むのか?」 『俺は悪くねえ!!』 やけっぱちの絶叫が耳の奥でこだまする。 ピジョンは激しくかぶりを振り、マットレスにできた真新しく大きな裂け目をおずおずなでる。 よっぽど強い力で突き立てのだろう、斜めの疵から大胆に綿がこぼれでている。 俺に手を出したらどうするの答えがコレか。 「…………こんなことして何の意味があるんだ。ちゃんと口で言えよ」 アイツは俺のことになるとすぐまわりが見えなくなる。 罪悪感に胸が疼く。膨れ上がる苛立ちと自己嫌悪が身の裡に渦巻いて息苦しい。 スワローはちゃんと約束を守ってくれた、すっぽかしてそらっとぼけることなく意気地なしの兄に代わって母にすべてを打ち明けてくれたのだ。 俺をさんざん弄んできた罪滅ぼしとして、アイツなりに誠意を示そうとしたと解釈するのは買いかぶりか? 俺は、俺だって悪くない。 元はと言えば全部アイツのせいじゃないか、俺の寝込みを襲ってあちこちいじくり倒した恨みは忘れないぞ、挙句夢精の恥までかかせた前科持ちをいまさら信用できるものか、あれもこれもスワローの日頃の行いが悪すぎるのがいけないんだ……。 「賞金稼ぎになりたいって本当なの?」 ストールを羽織った母が不安げに声をひそめる。ピジョンはマットの裂け目に綿を詰め直し、セロテープを貼って補修する。ハンドメイドの応急処置だが、何もせずに放っとくよりはいい。 「……本当だよ」 マットレスの裂け目をセロテープで固定し、ピジョンは小さく返事をする。 「その話はスワローを連れ戻してからゆっくり」 「連れ戻す、って……」 なんでどちらか一人に押し付けようとしたんだ。 二人の問題なんだから二人で向き合うべきなのに、根本から間違っていた。 「覚えてる、母さん。俺達が子供の頃、母さんを真ん中にして川の字で寝てたでしょ」 「え、ええ」 「それが母さんの夢だった」 空中に指をのばし「川」の字を書く。小さい頃母に習った、日本の|川《リバー》をさす文字だ。 母を挟んで仲良く寝ていた昔を回想、ピジョンの顔が郷愁に和む。 「ホントなら真ん中の棒が一番小さいからスワローを挟んで寝るはずなのに、なんで母さんを中心にしたか覚えてる?」 『スワローとピジョンどっちも大事で選べないから、半分こしましょ』 『二人はママの宝物だから、二人に挟まれて寝れたら最高に幸せよ』 分け隔てなく公平に。 半分こで平等に。 そうして母は、自らが真ん中に寝ることを提案した。 愛しい息子ふたりを同時に抱けるように、肩を包んで守れるように、どちらとも添い寝ができる真ん中を希望したのだ。 それが川の字の秘密だ。 ピジョンの述懐が呼び水となり昔の日々を思い出したか、母の表情がまどやかに安らぐ。 「……スワローを真ん中にしたら、寝相が悪すぎてよくHになってたわね」 「180度回転するとかアクロバティックすぎる」 「結局ママを真ん中にするのが一番いいって結論になったのよね」 「アイツが真ん中だとやたら俺を蹴っぽってくるしね。しかも脛に狙い定めて」 「スワローは足癖悪いわよね。そうだ、これは覚えてる?スワローがまだ赤ちゃんの頃、曲がる特訓をするんだって這い這いコースに瓶や缶を並べたことあったでしょ」 「真っ直ぐすぎるんだよアイツは、行く手にどんな壁があってもかまわずぶつかっていく。あんなんじゃ将来が心配だから、曲がることや折れることを覚えさせようと思って……片っ端からはねとばして暴走したけど」 「ママの化粧水倒した時は慌てたわ」 まだ赤ん坊だったスワローの進路に障害物を置いて、手拍子で導いた懐かしい日々を思い出す。最後の方にはスワローも少しは学習し、不規則に並んだ瓶の間を笑いながらジグザグに進んでいった。 「ようやく曲がることを覚えてくれたときは感動したよ」 兄に遊んでもらってると思っていたのだろうか、母が口元を優しく綻ばせる。 「ふふ。ちっとも変わってない」 「変わったこともある」 今はもう川の字を恋しがる子どもじゃない。 トレーラーハウスにひきこもって添い寝してもらう時期はとうに過ぎた。 川の字を卒業してからもスワローとベッドを半分こしてきた。 アイツはいつも俺の隣にいた。 いつのまにかそれが当たり前になって、隣にいないと落ち着かなくなっていた。 これまでもこれからも、近すぎて遠すぎる距離感にすれ違い空回っても、そこから逃げ出したらおしまいなのだ。 マットレスの応急処置を終えたピジョンは腰を上げ、床に落ちて潰れたパンケーキを皿に戻す。形は盛大に崩れて表面がへこんでいるが、食べられないことはない。 皿にのせなおしたパンケーキをキッチンに持っていき、テーブルに置いてラップをかける。 それから再び戻ってきて母の目をきっかり見据える。 「アイツが帰ってきたらちゃんと話す。だから……もうちょっとだけ待って」 「ピジョン……」 「やっぱりズルしちゃいけないんだ、どっちか一人に押し付けようとしたのが間違いだ。これは俺達二人の問題なのに……俺達のこのさきの話なのに、そっから逃げちゃだめだ」 昔々スワローと俺で母さんを半分こしたみたいに、この重荷も最初からふたりでフェアに分け合うべきだったのだ。 ピジョンはじれったげに唇を噛んで続ける。 「確かに模擬戦には勝ったけど、そうじゃなくて……そんな風に罰ゲームとして話すんじゃなくて、悪いことするんじゃないから堂々と胸を張って言えばよかったんだ。俺とアイツで話し合って決めたことなんだから、なすりつけあうのはおかしいんだ」 たとえば「お前が言え」じゃなく、「一緒に言おう」と提案したらどうだ?スワローは案外あっさりとOKくれたんじゃないか。 どんな厄介事だって、二人で分け合うならノッてくれたんじゃないか。 足りなかったのは俺の覚悟だ。 この先の人生に責任を負う覚悟。 「……半分持ってやればよかった」 今からでも遅くない、まだ間に合う。 「ピジョン!?」 ポケットの中の鎖を握り締め、矢も楯もたまらず駆け出す。 後ろから母のうろたえきった声が追ってくる。 アイツはクズでゲスで自分勝手なドSだけど、母さんを傷付けようとしたというのはとんでもない思い違いだった。 母さん大好きなアイツがそんなことするはずないのだ。 『お前なんか弟じゃない』 「~っ!」 ついさっき自分が放った台詞がきりきりと胸を抉る。 本気で縁を切ったわけじゃない、俺も頭に血がのぼっていた。だってそうだろう、弟が母を刺そうとしたかもしれない現場に駆け付けて平静でいられるか?出入口の段差を飛び下りて全速力で採石場を突っ切る。走るとさっき蹴られた腹がずきずき痛んでしんどい。きっと痣になってるだろう腹を片腕で抱えて、歯を食いしばって足を蹴り出す。 一度口から出た言葉は取り消せない。行いは打ち消せない。 母に手を上げる弟なんて弟と認めないとあの時は確かにそう思った、でも間違っていた、スワローは俺を守る決意表明にナイフを抜いたのだ…… 申し開きをしなかったのも、今ならわかる。 プライドのかたまりのようなアイツが、日頃馬鹿にしてる俺に向かって、「お前に手を出すヤツは全員ぶっ殺す、それを母さんに思い知らせるためにナイフを抜いた」なんてこっぱずかしいことを言うもんか。とことん鈍感な俺に一部始終を説明する恥をかく位なら、黙って家出したほうがよっぽどマシだ。 言いたいことは山ほどある。 夢精を強制された恨みは忘れてない、まだまだぶん殴ってやんなきゃ気が済まない。 でもそれとこれは話が別だ、事情もろくすっぽ聞かずアイツが悪いと一方的に決めてかかった俺こそ兄さん失格だ。 「スワローは町だよな……よし」 トレーラーハウスを出たスワローの足取りを推察する。まず最寄りの街へ行くはずだ、馬でもなんでも乗り物を調達しなければ始まらない。スワローが出たのは十分前、急げば追い付けるはず…… ……いや、ピジョンの足では心許ない。体力ではどうしても遅れをとる。 「だったら近道だ!」 ピジョンは閃き、採石場を横断して断崖の一箇所へ急ぐ。崖に穿たれた矩形の入口には乱雑に板が打ち付けられていたが、その隙間から通り抜けが可能だ。この抜け道のことは誰にも教えてない、スワローも知らない。模擬戦のトラップを仕掛けるため、材料を探し歩いていた時に偶然見付けたのだ。釘を打った板は、ここから一枚ひっぺがしてきた。 少しばかり入って調べたところ、このトンネルは崖の反対側に通じていることが判明した。 トンネルを使えば距離を短縮できる、まんまと先回りできる。スワローを出し抜くのに利用しない手はない。 板の隙間から這い蹲って侵入し、薄暗い坑道を側壁伝いに歩む。入口から遠ざかるほど光は薄れ、不気味な暗闇が濃くなる。正直怖いが背に腹は変えられない。坑道を真っ直ぐ抜ければスワローの行く手に出られる…… アイツに会ったら謝ろう。 そして今度こそ、二人で言おう。 坑道の距離はそう長くない、側壁伝いに進めば危険もない……はずだった。 「ん?」 ピジョンは耳を澄ます。自分の靴音と呼吸以外は聞こえない、静寂と闇が張り詰めた岩肌剥き出しの隧道にかすかに異音が混じる。 蜂の羽音に似た高音域の唸り。 次に異変を感じ取ったのは嗅覚だ。風通しが悪く空気が澱んだ坑内に、やけに血なまぐさい悪臭が漂っている。 すんと小鼻を蠢かし顔を顰める。 「獣くさいな……」 脳裏にけたたましく警鐘が鳴り響く。 一旦引き返せ、ここは何かヤバい、危険な匂いがプンプンする。でも今行かねば先回りできない、スワローを見失う。ピジョンは葛藤する。行くべきか戻るべきか、究極の二択。既に半分まで来ている、出口までもう少しだ。一気に走り抜けるか…… 焦燥に焼ききれそうなピジョンのすぐ耳朶で、可憐に澄みきった声がする。 「ねえお兄さん、この谷がコヨーテアグリーと呼ばれているのはご存知?」 「だれ?」 咄嗟に振り向いて暗闇に目を凝らす。 人影は見当たらない。どこにいるんだ?閉塞的な闇が方向感覚を狂わせる。 どこかに隠れた声の主は、くすくすと悪戯っぽく含み笑う。 「正確にはね、コイドッグというの。コヨーテと犬のあいのこよ。狼と犬の混血をオオカミ犬というでしょ、それとおなじ。オオカミの仲間には交雑能力があるのよ。コイドッグはコヨーテよりも家畜を襲うことが多くて害獣扱いされてるの、可哀想ね、生きる為に必死なだけなのに。この子たちはお腹いっぱいになりたいのよ」 「どこ?迷子?危ないから出ておいで」 暗く危険な坑道に小さい女の子の声ほど場違いなものはない。 遊びの延長で町の子が迷い込んだのだとしたら放っておけない。 ピジョンは持ち前の正義感とお人よしを発揮し、狭隘な坑道をさまよいつつ姿のない少女に再三呼びかける。 ピジョンの訴えを聞いているのかいないのか、声の主はどこか浮世離れした調子で、支離滅裂な独り言を垂れ流す。 「元々はコヨーテの集団だったのだけれどね、野犬と交配して今じゃ九割がコイドッグの群れよ。純血のコヨーテは一握り。ご存知?餌をもらって人慣れしたコヨーテはやがて人を襲うようになる。それだけじゃない、北アメリカインディアンのほとんどの部族がコヨーテをトリックスターとして崇めているわ。彼らにとってコヨーテは人間社会にタバコや太陽、死、雷をもたらしたケモノの神様なのよ」 何かが変だ。脳の奥で違和感が膨らむ。少女の声に重なって耳障りに濁った羽音がどんどん膨らむ。 少女の声と二重に響く羽音が思考を浸蝕、暗示にかかったように意識が遠のく。 坑道に殷々と反響する澄んだソプラノが、血の滴るように不吉な呟きを落とす。 「人の味を覚えたら後戻りできないの」 「うわっ!?」 突如として足元が崩れる。 「いてててて……」 地面が崩落し垂直に落下、ピジョンは一段下の坑道へと送り込まれる。 全身をさわって怪我がないのを確認後、途方に暮れて上を見上げる。 土砂がクッションになって事なきを得たが、自力で這い上がるのは困難な高さだ。どうやらこの坑道は見た目よりずっと深く複雑な構造をしているようだ。地下に潜って何層にもわたって掘られており、それぞれの道が迷宮の如く入り組んでいる。 ピジョンは絶望する。 「君はだれ?今急いでるんだ、イタズラにしちゃ度が過ぎるよ!」 ただのイタズラ?それにしちゃ不自然じゃないか?さっきから付き纏って離れないこの音は何だ、どうして声の主は姿を現さない? 低い唸り声が沸き上がり、饐えた獣臭がピジョンを取り巻く。 「ひっ……、」 暗闇に慣れた目が、自分を包囲するコヨーテ……もとい、コイドッグの群れを視認する。 すぐさまとびかかれるよう前脚を撓めた姿勢で、裂けた口腔から大量の涎を滴らせ、ギラギラ飢え狂った目で新たな獲物を睨み据えるコイドッグの群れには殺気が漲っている。 「ツイてないのねお兄さん。ビーの『実験場』に迷い込んじゃうなんてとっても不運、とっても不幸」 「じ、実験場……?」 「おかしいと思わなかった?コヨーテアグリーって呼ばれてるのに全然コヨーテの姿を見かけなくて。それはそうよ、みんな坑道にかくれんぼしてたんだもの。町の人にバレたらせっかくの計画がだいなしよ!だからね、こーっそり進めていたの。この坑道は見た目より深くて奥行があって、人に知られたくないことをするには最適よ。たまに迷い込んだ邪魔者さんはこの子たちに食べてもらったけれど……概ね煩わされず調教に専念できたわ」 コイドッグの群れの背後からほっそりと小柄な影が歩み出る。 見た目は華奢で愛くるしい、七歳程度の幼女だ。着ているのはこれまた場違いなゴシックパンクロリータ風味のドレス、足元は歩きにくそうな厚底靴。 黒を基調に黄色いファスナーを随所に仕込んだ洋服は、蜂の模様を意識しているのだろうか。 喉奥から剣呑な唸りを発するコイドッグが、少女の登場に応じて仰々しく道を開ける。 コイドッグを左右に従えてプリンセスの風格で粛々と歩み出た少女は、無様に尻餅付いたピジョンを値踏みするよう、優雅に長い睫毛が縁取る眸を細める。 「ちょうどよかったわ、躾もひと通り完了したし……そろそろ仕上げにかかる頃合いね。|蜂の巣《ビーのおうち》にとびこんだお兄さんには実験台になってもらいましょ」 蕾の唇から紡がれるのは、歌の節回しに似て愉快な囀り。 腰まで伸びたストレートの黒髪のインナーカラーは黄色、蜂に似せたツートンカラー。 吸い込まれそうな虚無が穿たれた琥珀の瞳は坑道の闇よりなお暗く、ブラックホールさながら底なしの吸引力を放っている。 「………君は一体?」 見た目はこの上なく愛くるしく、限りなく邪悪な存在感を纏った少女に問いかける。 無邪気な微笑みに見え隠れする純粋な狂気と透明な悪意が、コヨーテの迫力にも増してピジョンを圧倒する。 「ビーと遊んでね、お兄さん」

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