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第3話 ※

浴槽の淵に肘をつき、口元には三日月をたたえこちらを見つめる煌己 何がそんなに楽しいのか緩やかなメロディーを口遊み 水分をふんだんに吸い込んで額に張り付いた俺の前髪へと手を伸ばした。 反射で閉じる瞳は信頼というにはあまりにも拙い誓い。 「気持ち?」 「ん」 「そう」 なんて声を出すんだ。 一畳半の浴室に反芻する声 およそ家族、友人に向けられることはないであろうその甘い響きに 心の内側にモヤモヤとした霧のような感情が芽吹く。 じわり、じわりと湯船の熱とは別に腹の奥に蠢くそれが嫌で無意識に眉根が寄る。 煌己はそれに気づいているのかいないのか。 伸びた手のひらは、踊るように額から雫の滴る睫毛、目尻、それから頬へ唇へと辿り 顎を滑り首筋へ 俺が何も言わないことをいいことに好き勝手に触れる。 その度にじくじくと熱は侵食していき、薄い皮膚を食い破って何かが生まれて来る様な恐怖を感じる。 吐き気を覚えるその感覚と いい加減にしてくれという意味で顔を背ける。 笑みを含んだ声は「残念」と一つ言葉をこぼした後、 俺の頭を乱雑に一撫ですると水で滑りそうな床をギシリと鳴らして 「湯冷めする前に出ておいでね」 と普段通りの柔い声で浴室を後にした。 数分でも水に浸かって水中に慣れた体は、 立ち上がる際いつもより重く感じる。 本来疲れを癒すための入浴 何故かどっと疲れが押し寄せて来る様だった。 水飛沫を上げながら浴槽からあがる。 シャワーノズルを捻り吹き出した水は温かかった。 いっそお湯ではなく真水のほうが頭は冷えただろうか。 「…くそ」 ぞくぞくと鼓動に合わせて感じる煌己の手のひらが辿った跡 それから、シャワーの水音ですらかき消せないまだ俺の内側に燻る声 最悪だ。 夢見心地のようにふやけていた頭は一気に冴えた。 それがいいのか悪いのかで言えばはっきりしない。 肉体的にはいいのかもしれない。 けれど、精神的には悪いと言わざるを得ない。 だって、そうだろ。 主張するように緩く上を向く自身のそれに手を伸ばす。 「…っ、ふ」 聞こえてくれるな。 呼吸なんていらない。 太陽なんだ。 汚したくない。 気持ち悪いくらい、気持ちよくて 最低で、最悪だ。 ああ、本当に最悪の気分だ。 「っ……ぁ、」 自分から唇を重ねることはできる。 求められれば応えることもできる。 あれは別に構わない。 無理やり理由をつけてしまえばいいのだから。 信頼、祝福、誓い。 そういった類のもののつもりだ。 それ以外の意味は抱いてはいけない。 理由をつけてからでしか俺は煌己に触れることはない。 触れることはできない。 「はっ、ぁ……っ、っ」 いくら植物には太陽が必要だからといって それに直に触れれば火傷じゃすまない。 生きていく上で必要なものとはいえ 与えすぎては、与えられすぎては腐り醜く変色して枯れるだけの命 それは人間でも例外ではない。 ただ、自分の慰みにするのは違う。 いやだいやだいやだいやだいやだ だめ、だめだ、ほんとやめろ、ほんと、 感情と体はいつだってチグハグだ。 声を漏らさないように左手は口元を覆う。 右手は性器に触れ、だめだ嫌だと思うほどに無意識に律動を求めその先の快楽を拾っていく。 惨めにも膝は震え、腰はびくりびくりと跳ねる。 崩れ落ちないように足に力を入れることで精一杯だった。 「っ、っ…ふ、ぅ……んッ…ぁ!!」 口元を抑える手のひらに力が篭る。 指が頬に食い込んで、もう片方の手のひらは何度も同じ動きを繰り返す。 波打つ様な快感 罪悪感も後ろめたさも敵わない。 『ヨウ』 声が、反芻する。 何度か擦りあげただけで 呆気なく果てて、白濁で手のひらを汚した。 一度、欲が満たされた体は過敏に。 シャワーヘッドから噴き出す水が髪の先まで伝って肌を濡らした。 雨に打たれるような気分になり逃げるように壁に体を預け ズルズルと湿気で濡れた冷たい壁をつたって床にしゃがみこんだ。 快楽に敗北した自身の体の内側を埋める感情に泣きそうになった。 泣き出してしまいたかった。 「……」 涙は出ない。 けれどツンとした熱が鼻をくすぐる。 いつもそうだ。 俺にあるのは後悔ばかり。 与えることもできなければ返せるものもない そんな俺の隣にいる煌己 甘やかされているのはわかる。 そこに、友人以上の感情があることも ただ理由だけはいつまで経っても見つけられない。 煌己と俺は小さい頃から知っているだとか親同士が知り合いだったとか そんな関係ではない。 出会ったのは中学生の時だったけれど 話すようになったのは、確か、中学3年の春くらい。 煌己はどうして俺の隣にいてくれるのか こんなことしていいわけがない。 わからないことへの疑心と自身の行為に対する嫌悪が いつも通り俺の心を埋め尽くした。 そう、いつも通りに。

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