3 / 14

第3話

 メキシカンレストランで、大和は珍しくテキーラに負けてテーブルに突っ伏してしまった。徹の言う通りこんな大和を見るのは初めてで、蒼も少し戸惑っている。 (ああ、少しやり過ぎたかな……。)  チクリと針で胸を刺されたように痛む。でも、罪悪感よりも虚しさの方が勝っている。自分は一体何をしているのだろうという、自分自身に呆れるような気持ち。  自分は事態を更にややこしくしているのだろうか? だとしたら自分のやるべきことは決まっている。もうこんな風に大和を困らせるようなことは絶対にしないということだ。自分は彼女と会う日時と場所を早く決めて徹に伝えなければ。あの時の話はすべて嘘で、全部自分が考えた茶番に大和を上手く乗せただけだと。でも、そんな作り話をしなければならなかったのは、莉子さんが大和とすんなり別れてくれないからだと伝えよう。  彼女は傷付き怒るかもしれない。でもそんなこと知ったこっちゃない。潔く思いを伝えられない優柔不断な大和も悪いが、そもそも他者に依存しやすいストーカー気質の彼女が悪いのだ。蒼は都合よく自分にそう言い聞かせて、スマホを片手に、今後のスケジュールを確認した。 「んん……莉子」  寝言だろうか。大和が眉間に皺を寄せながらそう言った。 (ああ……なんかムカつくな。)  大和の頭の中には今彼女がいる。多分、今大和は彼女のことが気になってしょうがないはずだ。責任感が強いから、問題から目を反らしたりはしないが、問題の答えをすぐに出したがるせいでいつも詰めが甘い大和。だから余計そんな不甲斐ない自分に苦しくて仕方ないのだろう。  蒼は大和の隣で一緒にテーブルに突っ伏すと、大和の顔を間近でしみじみと見つめた。テキーラのせいか頬をほんのり赤く染め上げている。長い睫毛は濃い影を落とし、唇は突っ伏しているせいで自分の腕が圧力となり、可愛くぷっくらと突き出ている。 (キス……やばかったな……。)  大和から与えられたキスを思い出すと、蒼はたまらなく胸が焦がれた。もう一度あのキスを味わいたい。そんな欲望がむくむくと自分の中から生まれてくる。 (俺は何がしたいんだろう?)  自分でも自分が分からなくなることがあるなんて、蒼は今までそんなこと一ミリも感じたことなどなかったのに。大和のこととなると、蒼は自分でも想定外の行動を取ってしまうらしい。 (大和さんを苦しめたら俺が承知しないよ。)  徹の言葉が急に頭を掠める。 (お前の承知とかいらねーから。)  頭の中で徹にそう答える蒼。   徹はかわいい弟だ。でも大和を間に挟むと、目の上のたんこぶのように目障りな存在になる。今日こうやって夕飯に誘ったのも、密かに蒼が徹を牽制するためだ。自分と大和さんの関係は特別で、そこには誰も介入できない。それを徹に見せつけて知らしめるためだ。あいつは勘が良いから、多分蒼の意図を読み取ったに違いない。 「んんっ、蒼……どこ?」  大和が子供みたいにあどけない顔でむくりと起き上がると、きょろきょろと蒼を探した。 「ここだよ。ここにいるよ」  蒼はそう言うと、大和の肩を優しく抱いた。 「ああ、いた……んんっ、駄目だ、もうちょっとだけ、寝かせて……」  大和は安心したように半開きの目でそう言うと、またテーブルに突っ伏してしまった。 「いいよ。好きなだけ寝なよ」  大和の肩に回した手に力を込めると、蒼はそう優しく言った。 (どうしよう……。)  蒼はもう一度スマホを掴むとスケジュールを確認した。彼女と会う約束を早くしなくては。でも蒼はその席で何を口走ってしまうか分からない。自分でも予想外の行動を取ってしまいそうで怖くなる。多分蒼は彼女を前にすると、自分でも恐ろしいほど理性のタガが外れてしまうのだ。個室の時と同じように。 「なるようになれ、だな」  蒼はまた曖昧なことを口にすると、大和の無防備な寝顔を独り占めできる喜びに浸った。    徹に頼んでいた件は割とすんなり事が運び、ついに蒼は彼女ともう一度会って話す機会を得られた。それはメキシカンレストランで、夕飯を三人で食べてから一週間が経った頃だった。  就寝時、徹と二人で部屋に居る時、徹のスマホに女友達から丁度電話がかかって来た。徹は、わざとこれ見よがしに大きな声で女友達と話しながら、蒼の様子をいちいち伺ってくる。 「莉子さんオッケーだって。ねえ、これでいいんだよね?」  徹は大きな体をベッドに沈ませると、蒼を粘着質な目で見つめた。 「ああ。サンキュー。助かったよ。流石、交流範囲の広い徹だな」  蒼はわざと徹をおだてるように機嫌良くそう言った。 「はっ、何言ってんの? スキャンダルに気を付けろとか言ってたくせに。調子いいなー」  徹は片手で頭を支えるようにして横になると、蒼をまたさっきと同じような目で見つめて来る。 「ねえ、ちゃんと話付けてくるんだよね? 蒼さん。なんか俺心配なんだけど」  徹は蒼を真剣な目で見つめると、やや強めの口調でそう言った。 「大丈夫だよ。徹だって俺の方が適役だって言ってたじゃん。忘れたのかよ」  今度は蒼が徹の上げ足を取る。 「そうだけど。よくよく考えると、これってやっぱり当人同士がしっかりと話し合うべきものじゃないの?」  実に真っ当な意見だと感心するが、彼女は一筋縄ではいかない女性だ。本来なら最初の作戦がベストだったが、蒼は大和を悲しませたくないという気持ちだけで、渋々行動を起こす。まあ、その時になってみなければ自分のこの感情がどう動くかを、実は蒼自身が一番良く分かっていない。多分、徹はそれを危惧しているのだろう。 「それができればこんなことになってないんだよ。まあ、俺に任せとけよ」 「はあ~、何か大和さんの方が男らしく見えるのに、中身は蒼さんの方が男らしい……人の見た目ってほんと当てにならない」 「だから面白いんだろう?」  蒼はそう言いベッドに寝転ぶと、ぼんやり天井を見つめた。 (そう。面白い。)  大和はまるで宝箱みたいに色んな顔を持っている。出会った頃から蒼はその魅力に惹かれている。強そうに見えて実は脆い。頼れる男ではあるが基本甘ったれ。体を鍛えると喧嘩が強そうな麗しい男だが、筋力が落ちて痩せるとかわいい男の子になる。恥ずかしがり屋で、優柔不断で、意志が弱くて、でも、蒼たちにとってはかけがえのないリーダーで……。 「蒼さん? 寝てるの?」  急に静かになった蒼に徹が問いかけた。 「ん? ああ、起きてるよ」  蒼はそう言ったが、重たい瞼に抗えず静かに意識を無くしていった。  蒼はあの時の徹とのやり取りを反芻しながら、大和の部屋の前で立ち止まった。 「おはよう!」  蒼は大和の部屋をノックしながらそう言うと、部屋の中から物音がし、ドアノブがまるで躊躇うようにゆっくりと回った。 「お、おはよう。蒼」  キスを交わしてから既に2週間以上は経っているというのに、未だに大和は蒼にぎこちない。それだけが今回のことで蒼が唯一後悔していることだ。こんな風にちゃんと蒼と目を合わせてくれないなんて悲しすぎて泣けてくる。  大和はまだ着替えていないのか、パジャマ代わりの上下スウェット姿でお腹をぽりぽりと掻いている。 「どうした? こんな早くに」  別段早くもない。今はもう午前十時だ。 「中入っていい?」 「え?……ああ、い、いいよ」  こんな風に、蒼が部屋へ入ることを躊躇されたことなど今まで一度もない。蒼はそれがショックで下唇を噛みしめた。  「今日、莉子さんと会って来るよ」  蒼は大和をまっすぐに見つめると潔くそう言った。大和は困惑した表情を作ると、脱力したようにベッドに腰かけた。 「蒼……俺、あの時珍しく酔っぱらっちゃってて良く覚えてないんだけど、その話は無かったことになったんじゃないのか?」 「なってないよ。徹に頼んで莉子さんとアポ取れたしね」 「莉子はオッケーしたのか? 蒼と二人きりで会うこと……」 「ああ、したよ……ねえ、大和さん、大丈夫だよ。しっかり誤解を解いてくるから。俺に任せて」 「でも、蒼……」  大和は不安げに蒼を上目遣いで見つめた。その小鹿のような愛らしい目に蒼は引き寄せられ、思わず大和のベッドに一歩近づいた。その時、大和はびくっと体を震わすと、慌てて蒼から目を反らした。 (ああ、また反らす。それマジで嫌だ。)  蒼はもう一歩近づくと、そっと大和の両肩に手を置いた。大和は蒼にされるが儘硬直している。 「安心して。最良の形に俺がまとめるから」  蒼は大和の肩に力を込めると、そう丁寧に言った。 「……蒼……それが一番心配なんだよ」  大和は溜息混じりにそう言うと、肩に置かれた蒼の手を払うように立ち上がった。 「分かったよ。蒼を信じて任せる。ただ、もう二度と莉子を傷付けるような嘘は付くな。それだけだよ。こんな俺が言えるのはな」  大和は自虐的にそう言うと、おもむろにクローゼットの中を忙しなく漁りながら、「着替えるから出てってくれ」と蒼に伝えた。  「ん? 蒼? 聞こえなかったのか? 着替えるから出てってくれって言ったんだけど?」  大和は、まだ突っ立ったままの蒼に振り返りそう言った。 「何で? ちょっと前まで同室だったのに、着替える時だって全然平気だったのに……何でそんな余所余所しいの?」  自分はひどく矛盾している。この大和の反応は明らかに自分のせいなのに、自分がこんなこと言える立場じゃないのに、蒼は今、自分で蒔いた種に後悔し、子どもみたいに駄々をこねている。 「え? そ、そうだったっけ?」  大和はアワアワと脱いだスウェットをベッドに放り投げると、白いタンクトップ姿で蒼を見ずにそう言った。 「俺まだダメなんだよ……お前を変に意識しちゃって恥ずかしくなるんだよ……何か俺、女みたいじゃん」  大和は蒼に背を向けると、クローゼットの中に引っかかっている洋服一枚一枚の間に手を挟みながら、今日の衣装を探している。良く見るとその剥き出しの腕は、ほんのり赤く染まっていた。 (……何だろう……この気持ち……。)  蒼は、大和が未だに自分にぎこちないという事実に、さっきまでとは違う別な感情が胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。悲しいとか、寂しいとかではなく、自分は今、大和の態度に感情が強く揺さぶられ、体の血が沸き立たつほど興奮している。  蒼はこの感情を逃がすまいと、高価な宝石のように大事に包み込むと、それを自分の胸にしっかりと刻んだ。すると、今はっきりと自分の心の声が聞こえたような気がした。 (そうだよ、俺は大和さんが、やっぱり好きなんだ……。)   そう確信した蒼は、大和の部屋から黙って出ると、彼女の待つカフェへと迷いなく進んだ。     高円寺駅から徒歩十分ぐらいの路地に入った場所にある、人目を引かないそのカフェは、以前マネージャーから教えてもらい、密かに蒼の落ち着ける場所として存在している。若い子で埋まるような店ではなく、客の年齢層は割と高く、少し地味だが落ち着いたセンスが光る素敵なカフェだ。  蒼たちはそこで十一時に待ち合わせをしたが、五分前に着いた自分よりも彼女の方が先に来て蒼を待っていた。  彼女は道路脇の席をわざと避け、店の入り口から一番遠い席に座っていた。平日のこの時間はいつもこんな感じなのだろうか。運よく店内にはサラリーマン風な男性が数人いるだけで、誰も蒼たちに気を留めるような者はいなかった。  彼女はいつもよりもおとなしめな地味な格好をしていた。グレーのトレーナーにブルージーンズ。黒いキャップを目深にかぶり、小花柄の可愛いマスクをしている。偶然にも蒼も似たような感じ。これじゃあ、ペアルックもどきをしているカップルと勘違いされてもおかしくないだろう。と、蒼は心の中で軽く溜息を付いた。 「ごめんなさい。待たせましたか?」  蒼は丁寧にそう言うと、彼女の前に腰かけた。 「全然。ちょっと前に着いたばかりだよ」  彼女はそう言うと、持っていたスマホをテーブルに置いた。 「何か注文する? ここって何がおススメなの?」 「いや~、知らないです。俺はここに来ると、ただ読書をしながらアメリカンコーヒーを飲むだけなんで」  本当に知らない。自分はこのカフェの雰囲気が好きなだけで、メニューには全く興味がないから。 「あっそ、つまんない人だねー」  彼女はそう言うと、メニュー表を手に取り、ぺらぺらとめくり始めた。 「じゃあ、蒼君はアメリカンコーヒーでいいのね? 私は……ロイヤルミルクティーのホットがいいかな」 「分かりました……あ、すみません!」  蒼は大きな声を出して店員を呼ぶと、アメリカンコーヒーとロイヤルミルクティーを素早く注文した。 「さてと、今日のこの時間は一体どういう理由なのかな?」  彼女はメニュー表を元あった場所にさっと戻すと、蒼に真っ直ぐ向き直った。 「はい。いきなりすみませんでした。今日は来てくれて嬉しかったです」 「そうだね。私もあの時かなり動揺してたから、逃げるように帰って来ちゃってごめんなさい」  彼女はすまなそうに眉根を寄せると軽く頭を下げた。 「いえ、俺たちの方こそ、なんていうか、見たくないようなもの見せちゃってすみませんでした」 「確かに! あれは強烈だったよ。もう目に焼き付いちゃって離れないの。思い出すと今でも胸がドキドキしちゃってさ」  彼女は声を抑えながらも興奮していることを蒼に隠さず伝える。こんな素直な所が彼女の魅力ではあるのだが。 「強烈でしたよね。確かに……」 「そうだよ。二人が付き合ってるなんて青天の霹靂もいいとこ。私、驚き過ぎて、兄のプライバシーまで口滑らしちゃったからね。まあ、兄は何とか上手くやってるわ。バレないように気を張りながらね。その鬱屈さとか窮屈さに同性愛の人たちはメンタルをやられるから、私はそれが心配で、二人を応援したいような気持になったの」  真剣な顔でそう話す彼女を見ていると、今から自分がしようとしていることにもちろん罪悪感を覚えない訳はない。でも、蒼の中に灯った思いは、その罪悪感をも簡単に凌駕するほど熱く燃えていて、本当に申し訳ないけど、蒼はその思いを止められないし、止めるつもりもない。 「あの、莉子さん。今日はそのことでお話があって莉子さんを呼んだんです」 「そうだよね? だから私、何で蒼君に呼び出されたのか私なりに考えてみたんだよ」 「え?」  彼女は今運ばれてきたばかりのロイヤルミルクティーを手に取ると、美味しそうに一口飲んだ。蒼も少し心を落ち着かせようとアメリカンコーヒーを一口啜る。 「二人が付き合っていることを、絶対誰にもバラさないようにもう一度私によーく釘を刺しに来たのか。次、私が本当に大和を諦めたかどうか、それが不安でもう一度会ってちゃんと確かめたかったのか。次、実はなんと、しつこい私と大和を別れさせるために、この間の話はすべて蒼君が考えた嘘のシナリオだったと、私に白状するためか。どう? この中に合ってることある? でも、流石に最後はないよね?」  彼女は楽しそうにそう言うと、蒼を真っ直ぐ見つめた。なるほど。彼女はやっぱり、あの個室での自分たちの話を完全には信じていないらしい。疑う余地は十分にあっただろうし。でも、嘘をつかれたという事実だけは避けたいという複雑な思いを彼女から感じ、蒼は少し胸が痛くなる。 「そうですね。ないと言ったら嘘になりますね」  蒼は彼女を見つめ返すと、そうはっきりと言った。 「ふーん、そうなんだ……ねえ、それは何? 早く話して」  彼女はきつく蒼を睨みつけるように見つめると、体をテーブルの前に乗り出した。 「真ん中と最後かな」 「真ん中と最後……って、え?……ええ??」  彼女は大きな声でそう言うと、瞳を見開きながら呆然と蒼を見つめた。 「ごめんなさい。莉子さん。でも、完全な嘘じゃない。それは確かです」  相当ショックが大きかったのか、彼女は石のように固まってしまい動かない。 「ひ、ひどいな、蒼君。あなたって、本当にひどい」  彼女は声を押し殺しながら怒りを滲ませてそう言った。何を言われてもしょうがない。自分はそれだけのことをしたのだから。 「何とでも言ってください。騙して本当にごめんなさい。お兄さんのことも。決して同性愛の人たちを侮辱するつもりなんてなかったんです。それは大和さんも同じです。信じてください。ただ、どうしてあんな行動を取らなければならなかったのかは、莉子さんが一番良く分かっていると思いますよ」  蒼は挑むように彼女を見つめると、冷えたアメリカンコーヒーを一気に飲み干した。 「わ、私が大和を諦めなかったからよね? それでなの? あんな嘘を二人で……否、違う。考えたのは蒼君よね? 大和はあんなこと思い付きもしないもの」   「そうですね。俺が上手く大和さんを乗せましたから」 「あ、呆れたな……蒼君、あなたって相当怖い子ね」 「怖い?……違いますよ。俺はただ大和さんが好きなだけです」 「え?」 「さっき言ったでしょ? 全部が全部、嘘じゃないって」 「……は? どういうこと?」 「本当は、俺たちは恋人同士ではないけど、俺はそうなっても構わないくらい大和さんが好きだってことです。あの個室の時はまだ気持ちは曖昧だったけど、今はそう確信してます」  蒼は何の躊躇いもなく彼女にそう言い切った。彼女にわざわざ思いをぶつけるのは、傷つけてしまった彼女に対するせめてもの誠意だ。 「蒼君は、本当に大和が好きなの?……蒼君はゲイなの?」 「否、違うと思います。普通に女性とSEXできますから。俺は大和さんという人間が好きなんです。男とか女とか関係なく、大和さんという人に心がときめくし、可愛いと思うし、兎に角色んな魅力を持っていて、強く惹かれるんです」  彼女は既に怒りを通り越して、途方に暮れているように見える。まだ半分以上残っているミルクティーのカップを、ずっと両手で挟んだままだ。 「今日ここに来たのは大和さんが莉子さんのことをとても気にしていたのもあります。だからこうやって正直に打ち明けに来ました」 「大和は? 何で来ないの?」 「大和さんには来ないでくれと俺が頼みました。今日会ってまた、二人の関係が埒明かなくなると嫌だし、僕のこの気持ちを聞かれるのはまだ早いし、まあ、そんな理由です」  彼女は挟んでいたティーカップを両手で持ち上げると、蒼と同じように一気に飲み干す。 「ほんと大和もさいってい。私、一気に冷めたわ……って、え? ねえ、今何んて言った?」 「え? 埒開かなくなると嫌? ですか」 「違う! その次! 大和に思いを伝えるって何それ! 嘘を現実にしちゃうつもりなの?」  彼女は信じられないという顔を露骨に作ると、頭を後ろに仰け反らせた。 「私はね、もう大和に対する未練は今ここですっぱりと切ったから安心して。女と別れるのに蒼君を頼るような、あんな優柔不断な男だとは正直思わなかったし。だからもうそれでおしまいってことでいいでしょ? 蒼君の気持ちは自分の心の中に良い思い出としてしまっておけばいいじゃない。それをわざわざ大和に伝える必要なんてないよ。そうそう、もう今日でおしまい。明日からはまた今まで通り。ね? それでいいでしょう?」  彼女は焦りを滲ませながら蒼に必死に思いを伝える。彼女の気持ちは良く分かる。でも蒼の心に付いた炎は燻るどころか更に激しく燃え上がってしまい、誰にも鎮火などできやしない。 「大丈夫です。心配しないで莉子さん。俺は大和さんを好きなのと同じくらいにグループを愛してますから。誰にも絶対迷惑かけたりしません。だから今日の話はここだけの秘密ということでお願いします」 「そ、そんな蒼君、待って! 迷惑は大和にだいぶかかると思うわよ?」 「ああ、確かに……でも、それはどうか分かりませんよね?」 「はあ? どういう意味?」  彼女は困惑の表情で蒼を見つめるだけで、頭が混乱しているからか次の言葉が何も出てこないようだった。 「さてと、今日は俺と会ってくれて本当にありがとうございました。そして、莉子さんに失礼なことをしてしまって心から謝罪します。本当にすみませんでした。これは大和さんと俺からの気持ちです」 「……そ、そんなの、本人から直接聞かないと意味ないわよ」 「いや、もう二度と俺が会わせませんから」 「……っつ……はあーもうほんとやだっ。さいっていだわ」  彼女はそう言うと、目の前にあった紙ナプキンを蒼に強く投げ付けた。    途中、適当に昼飯を食べて本屋に寄り、読みたかった新刊本を買って宿舎に戻ると、時計の針は午後3時を指していた。まっすぐ自室に戻ると、徹は部屋にいなかった。   流石に彼女との対話に気を張っていたせいで、正直疲れた感は否めない。でも、今日の彼女とのことを早く大和に伝え、安心させたくて、まだ心がいくらか落ち着かない状態ではあるが、蒼は大和の部屋へと向かった。 「大和さん、いる?」  蒼はノックをしながらそう声をかけたが、中から返事はなかった。試しにまたドアノブを回してみると、相変わらず鍵はかかっていなかった。蒼は少し呆れながらも構わずドアを開けると、部屋に入った。 「大和さん……」  部屋に入ると、大和はベッドの上で無防備に寝ていた。昼夜逆転している可能性が高い。この人はエゴサやファンサービスが旺盛だから、ついつい夜更かしをしてしまう危険がある。蒼はそれを少し危惧しているが、アイドルとしての自分なりの信念を強く持っている人だから、他人の忠告にあまり耳を貸さないところがある。でも、最近は前よりも素直になっている気はするが。  蒼は貴重な睡眠を取っている大和を起こさないよう、そっとベッドの端に腰かけた。  可愛い寝息が蒼の耳元を掠める。もっと良く聞きたくて、蒼は大和の口元まで耳を近づける。スースーという音を聞いてると、自分まで眠りに誘われてしまうような安心感を覚える。  蒼は大和の口から頭を上げると、どうしようかと部屋を見渡しながら考えた。このまま起こさず出直すか、起きるまでここで待つか。でも、起きた時蒼がいたら大和はビビりだからひどく驚くかもしれない。蒼はそれを想像するとおかしくて、ひとり顔がにやけた。 (起こすのは可愛そうだから、ここで俺もひと眠りして、起きるまで待つか……。)  蒼はそう決めると、部屋に置かれているソファーに横になった。その時、大和がいきなり寝返りを打った。ちょうど蒼が横になっているソファーはベッドの真向かいにあり、寝返りを打った大和と蒼の視線がぴったりと重なる。蒼はドキドキしながら大和見ていると、次の瞬間、大和はゆっくりと目を開けた。 「んっ、あ、あれ……蒼? 何、で?」  大和は横になったまま蒼を見つめると、寝ぼけた声でそう言った。蒼の想像とは違い大和はあまり驚かなかった。ただ、慌てたようにその大きな瞳を泳がせている。 「ただいま。無事莉子さんと話してきたよ。莉子さん、俺たちの嘘を許してくれたよ。もう大和さんのことはきっぱり諦めるって。つーか優柔不断男だって愛想つかしてたよ。残念だったね」 「俺は何言われてもいーよ。そーか、良かった。本当に」  大和は安堵の表情を作ると、躊躇いがちに蒼を見つめた。 「ありがとう、蒼。本当に感謝してる」 (そんな真っ直ぐな感謝俺に伝えて……大和さん、後悔するよ?)  蒼は心の中で、複雑な自分の思いを口にする。 「握手」  大和はそう言うと、いきなり蒼に手を伸ばした。でも、ベッドとソファーは微妙に届かない距離にある。蒼たちはふざけてお互いの手をこれでもかと伸ばすが、横になったままではもちろん届くはずもない。 「あはは、届かないよ。大和さん」  蒼は思わずおかしくて笑いながらそう言った。 「じゃあ、お前がこっち来いよ」  大和も笑いながらそう言ったが、すぐさま「まずい」という表情に切り替えたことに、蒼の心は一瞬で煽られた。 (やばい。我慢できない。)  蒼はソファーから起き上がると、素早く大和の手首を掴み、そのまま大和をベッドへ押さえつけた。 「なっ、蒼……何すんだよ!」  蒼は、大和の手首を強く掴むと、大和に覆いかぶさりながら、上から大和の唇をじっと見つめた。 「ねえ……キスしていい?」  多分大和は蒼からのキスを拒めない。蒼はそれに自信を持っている。 「はあ? ちょっ、あ、蒼、駄目だ、やめろ!」 (大和さん。その自慢のバカ力で俺を付き飛ばせばいいじゃないか。何故それをしないの?)  蒼は徐々に自分の唇を大和のそれに近づけると、ついにその柔らかい官能的な唇に触れることができた。 「ふっ、あ、蒼、や、やめっ」  歯列をこじ開け舌を差し入れると、あっという間に大和の舌は蒼に捉えられた。それでも僅かな理性で蒼の舌を避けようとするが、蒼がそれを執拗に追いかけると、大和は観念したように力を抜いた。 (ああ、堪らない。)  こんな脳みそが蕩けるような興奮がこの世に存在するなんて知らなかった。こんな愉悦、自分は今まで一度も味わったことがない。 (好きだ。好きだ、好きだ。)  思いが強すぎて溢れ出てしまいそうだが、蒼はまだその言葉を口にしない。もっと慎重に、もっと大切に大和を自分に馴染ませながら、蒼は大和を落とそうと考える。 「はあ、あ、蒼……」  大和は熱く潤ませた瞳で蒼を見つめると、蒼の頬を掴み、蒼のキスを自ら強く求めてきた……。

ともだちにシェアしよう!