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第5話

 宿舎の屋上は秋の終わりを告げるように肌寒く、冗談抜きでダウンでも着こみたい程だと思ったが、まだそれはクローゼットの奥にしまい込んでいて、取り出すのが面倒くさい。蒼は、厚手のパーカーの上にウインドブレーカーを着て、秋の夜の寒さを凌いだ。  待ち合わせ時間は二十一時。逸る気持ちを抑えながら、蒼は少し早めに来て大和を待った。  何故レコーディングスタジオで自分は大和をここに誘ったのだろう。別に場所などどこでも良かった。ただ二人きりになれる場所でさえあれば。ただ、そこにラップの練習という大義名分をくっつければ、真面目で優しい大和なら、蒼を警戒しながらも誘いに乗ってくれると思ったからだ。  練習生の頃、ここで大和と良くラップの練習をしたのは確かだ。あの頃、まだラップという歌唱方法に自分たちは戸惑っていた。お互いに歌うことが好きだったから、正直ラップというもので自分たちを表現することに抵抗がなかったとは言ったら嘘になる。でも、二人で何度も練習して、自分たちの奥に潜む感情を込めながら、韻を踏んだ歌詞を考えて、どうしたらもっとクールに、アバンギャルドに表現できるかを突き詰めていた。  (同士のように俺たちはここで戦ってたんだ。本当にやっかいだけど、すこぶる魅力的なラップってやつと……。)  蒼は過去を反芻しながら、屋上から見える景色を見渡した。ネオンが綺麗に輝いているが、所詮は人工物だ。そんなまやかしに惑わされるような人間にはなりたくない。移ろい易い流行に振り回されて、本物見誤るようなことはしたくない。自分たちは所詮アイドルでも、自分たちだけの特別な音楽がある。言葉がある。その誇りと自信を失ったら、自分がこの世界で生きる意味なんてない。自分を価値ある者にしてくれるのは、リーダーの須田大和が率いるこのアイドルグループだけだ。それが今の自分のすべてであることを、蒼は自信を持って言える。 「……蒼、待たせたか?」  少し気後れするような感じで、大和は蒼に背後から声をかけてきた。蒼はその声に胸が高鳴り、ゆっくりと深呼吸をしながら振り返った。 「いや、全然……あれ? そんな恰好で大丈夫? 今晩寒いよ?」  大和は薄手のトレーナーを着ただけだった。寒がりの大和らしからぬ格好に、蒼は驚いてそう言った。 「い、いや、慌てて来たから、部屋に上着忘れて来ちゃって。大丈夫だよ。ラップの練習するなら、このくらいが丁度いいよ」   大和はぎこちない笑みを浮かべながら、蒼にそう言った。 「何をそんなに慌てたの?」  蒼は少し意地悪な質問をして、大和の心中を探ってみる。多分のこの人は、いつものように、ぐるぐると頭の中で色んなことを考えては堂々巡りをするだけで、結局上手い答えを出せずに、ただモヤモヤとしているだけなのだろう。蒼の気持ちを聞き出す勇気もなく、ここに来れば、自分たちが元に戻れるかもしれないという僅かな期待を持って。 (もし、元に戻れると思ってんなら、大和さんは全然自分のこと分かってないな。)  いくらでも蒼のキスを拒むチャンスはあったのに。でも、あの時の大和は、むしろ強く蒼とのキスを求めてきた。もし、そんな自分に戸惑い苦しんでいるのなら、今すぐ蒼に聞けばいいのだ。 「俺を好きなのか?」と。  でも、蒼はそれでもはぐらかすかもしれない。もっと大和を翻弄させ、蒼のことばかり考えるように仕向けたい。それはまるで、蜘蛛が糸を張り巡らせ、獲物をじわりじわりと仕留めるのと似ているように。 「あ、いや、別に……あ、慌ててないな、ただ、俺って忘れっぽいじゃん。それだけだよ」  大和はオーバーに身振り手振りを加えながらそう言うから、蒼はそれが可愛くて思わず笑った。 「何だよ。笑うなよ」  ふてくされたように口を尖らせて言う大和が益々可愛くて、蒼は思わず手を伸ばすと、大和の肩に腕を回した。 「本当に寒くない? 大事な時期に風邪なんか引いたら、俺のせいになっちゃうじゃん」  蒼は大和の腕を擦りながらそう言うと、大和は蒼の腕を掴みそれを制止した。 「離せ、蒼……俺に触るな」  大和はそう言うと、蒼から体を離し屋上の手摺まで歩いて行ってしまう。蒼はそんな大和の後姿を見つめながら背後からゆっくりと近づいた。 「嫌だよ。そんなこと言わないでよ」  蒼はそう言うと、背後から大和を左右に挟むように手摺を掴み、自分の腕の中に閉じ込めた。 「あ、蒼!」 「嫌なら俺を殴ればいいじゃん。俺の方が体は大きいけど、腕力じゃ大和さんには絶対叶わないよ」 「なっ、ぼ、暴力はしたくないよ。蒼……頼む、もうやめてくれ。俺、本当にどうしていいか分かんないんだよ」 「何でわからないの? 物凄く単純なことなのに」 「何がだよ! 何が単純なんだよ」  蒼は大和の肩に顎を乗せると、かわいい形をした耳たぶに唇を近づけた。 「この耳が凄く可愛いってことだよ……」 「はあ? い、意味が分かんねえ……」  蒼は大和の耳たぶを咥えると、軽く甘噛みをした。大和はびくっと体を震わすと、切なげな吐息を漏らす。それを合図のように、蒼は大和の可愛い耳を、隅から隅まで唇で凌辱する。 「うっ、蒼っ、やっ、め」 (耳弱いの、俺知ってるから……。)  大和は手摺をぎゅっと掴みながら自分の愛撫に耐えている。蒼はそれに興奮し、自分の舌を大和の耳の穴に差し入れ掻き回すと、大和の反応を楽しんだ。 「ああ、蒼っ、ダメだ! や、めろっ」  白い首筋を露にしながら悶える大和は、この上なく可愛くて色っぽい。本当にこの人は自分にこんなにも色気があるということをもっと自覚してほしい。男らしい魅力の中にある、その真逆な、初心で純粋な反応のギャップにハマり、蒼はもう後戻りができない所まで来ているというのに。  蒼は大和の望み通り、ぱっと手を離すと、名残惜しさを感じながら、大和の耳から唇をそっと離した。 「さてと、本命のラップの練習始める?」  蒼はポケットから歌詞カード取り出すと、大和の顔の前でそれをひらひらと揺らした。  大和は顔と首を赤く染めながら、蒼を呆然と見つめた。この反応は当たり前だ。蒼は、今度こそ大和に殴られるのではないかと体に力を入れてそれを覚悟した。 「蒼……お前、本当にマジで……俺に何をした?」 「え?」  大和は悲しげに屋上の床に目を落とすと、ぎゅっと苦しそうに両手を握った。 (ああ、殴られる。)  そう思った次の瞬間、大和は蒼にしがみつくように抱き着くと、身長差で少しだけ上目遣いになる瞳で、蒼を見つめた。 「キスしろ、今すぐに」 「え?」 「早く!……キスしたいんだよ。蒼と」 (ああ、どうしよう。参ったな……俺って相当罪な男かもしれない……。)  自分の理性がぷつっと音を立てて切れるのを蒼は耳にした。後はもう自分でも、この状況をしっかりと認識できている自信がない。この場所がどこかということも、自分たちが気鋭のアイドルグループだということも、既に忘れかけている。 「待って、今、してあげる……たくさん、してあげるよ」  蒼は片手で大和の腰を抱くと引き寄せ、空いた方の手で大和の頭に手を添えると、最初から強く唇を押し当て、まるで初めてするような不器用なキスを、興奮のあまり大和に浴びせてしまう。 「んんっ、蒼」  大和は蒼の名前を呼ぶと、蒼の頬を掴み、自ら角度を変えて、蒼の舌を捉え激しく絡ませてくる。 (ああ、あの時の、個室の時のキスだ……。)  蒼はそれを思い出すと、自分がリードする気力を無くし、大和からのキスに身を任せる。それでも、可愛い円らな瞳で見つめられると、雄としての蒼の欲望が再燃し、その大和のギャップに翻弄されながら蒼はまた主導権を握り、大和の口腔を激しく犯してしまう。 「ん、ふっ、蒼……やぁ、ダメだ、立ってられない……」  大和はそう言うと、蒼から口を離し苦しそうにそう言った。 「じゃあ……場所変える?」  蒼は何の躊躇いなくそう言った。でも、蒼の言葉に大和の顔色がさっと変わるのが分かった。 「……お、俺たち、ラップの練習に来たんだよな……俺、何してんだ……」  大和は瞳を潤ませながら目を細めると、蒼を苦しそうに見つめた。 「そうだね。でも、寒いし……今日は止めて、このまま大和さんの部屋に行ってもいい?」 「……は? む、無理だ。俺、これから用事があるから」 「用事?」  蒼は驚いてそう聞き返した。 「ああ。さっき電話がかかって来て、ちょっと人と会う約束をしてるんだ」 「誰と?」  蒼は気になってすかさず尋ねた。  「だ、誰だっていいだろう。俺にだってプライバシーはあるんだよ……全部蒼に報告する義務なんてない」  大和は蒼から目を反らすと、男らしい言い回しでそう言った。でも、それが何となく不自然で、蒼は、大和は嘘をついているのではないかと訝しんだ。 「本当に? 今から?」 「……そうだよ……悪いな。俺もう行くわ」  大和は蒼に背を向けると、屋上のドアへと向かおうとする。蒼はそれを数秒間黙って見ていたが、もしやと思い大和に近づいた。 「待って!」  蒼はそう言い、急いで大和の手首を掴み引っ張ると、そのまま引き寄せ、思い切り強く抱きしめた。 「ごめん! 部屋には行かないから。嘘つかないで……」 「蒼……」 「俺焦り過ぎた……寒いけど、ここでもうちょっとキスしたい……」  蒼はそう言うと、大和を必死に見つめた。 「……寒い? 俺は熱くてしょうがない よ……」  大和は蒼を見つめ返すと、掠れた声で蒼の耳元にそう囁いた。      屋上でのキスは蒼を困惑させる。ほんの数週間前のあのキスを思い出すと、蒼の胸は疼き、全身が大和を求めて熱くなるというのに。大和を前にすると、蒼はいつも自分の衝動を抑えられなくなってしまう。大和を翻弄させながら、じっくりと大和を落とすとほざいていた自分が恥ずかしい。蒼はそんな自分が情けなくて、今少し落ち込んでいる。  多分、蒼の行為のひとつひとつは、その度に大和を混乱に陥れ、戸惑わせしまったに違いない。そう思うと自分の身勝手さにひどく胸が痛くなる。でも、その反面、大和が徐々に自分を受け入れつつあることに喜びを感じずにはいられないのだ。この相反する身勝手な自分の感情を蒼はどう整理すれば良いのか分からず、珍しく迷走している。  このままもっと深みに嵌るまで突き進めば良いのか、やっぱり冷静に考えてこの関係を自然に消滅させるべきなのか。ただはっきりしているのは、後者を蒼が全く望んでいないということだけ。でも……大和は?   蒼はまだ自分の気持ちをはっきりと大和に伝えてもいなければ、大和の蒼への気持ちを確かめてもいない。蒼たちはただ惹かれ合うようにキスをし、そしてそれが、胸が焦がれるほど幸せだということにお互いに何となく気づいているだけ。それが蒼たちの運命で深い絆なのだとしたら、この関係をもっと深めていくのは決して罪なことではないと、蒼はそう思いたい……でも……。  誰かに相談できるような案件ではない。こんなことをもしメンバーが知ったら、蒼たちメンバーの関係は一瞬でバラバラになってしまうだろう。  蒼は全く本末転倒なことをしている。事の発端はグループのことを考えて、大和と莉子をきっぱり別れさせるためだったのに。  蒼は深い溜息を漏らすと、ベッドの上で読んでいた本をパタンと閉じた。徹は蒼の隣のベッドで大の字になって寝ている。  眼鏡をかけて本を読むと目が疲れる。蒼は眼鏡を外すと、鼻の付け根を撮むように何度かマッサージをした。 (今頃大和さん何してるんだろう? ベッドの上でまたエゴサしてるのかな……。)  蒼はぼんやりと天井を見つめながら大和のことを思った。ツアー前の多忙気に、あまり要らぬ情報に頭を悩ますなどして欲しくない。SNSの類は陰と陽の世界だ。ポジティブにもネガティブにもなる。その時の体調によっては、強くネガティブな方に引っ張れてしまうこともあるから怖いのだ。 (俺たちはもう、スマホのない世界が過去にあったなんて信じられない世代だからな……。)  でも、相手のことが気になってその思いが強く募る時、こんな便利な物はないのだ。タップひとつで、簡単に言葉でコミュニケーションが取れるのだから。  蒼はラインの画面を開くと、大和にメッセージを送った。 『寝てる?』  まずは簡単に一言だけ。でも、直ぐ既読になり数秒後に返事が来た。 『起きてる』  ああ、やっぱり。  蒼は想像通りだと思い、少し不安な気持ちになる。 『いつも何時に寝てるの?』 『2時とか3時とか?』 『それ遅くない?』 『俺の今のリズムだから大丈夫』  今の所、大和の体調面も精神面も健康だから安心だけど、むしろ蒼のせいで眠れない夜を過ごしているのなら、それは本当に心から申し訳ない気持ちで一杯になる。 『一緒に寝てあげようか?』  蒼は唐突にそんな言葉を送った。もし中々寝付けずに苦しんでいるのなら、蒼が傍で眠りにつくまで見守ってあげたい。でも、それって逆効果だろうか? そう分かっていながら、大和のこととなると蒼は冷静な判断ができない。どうしても自分に都合良く物事を考えてしまう。   既読はすぐに付いたが、さっきまでのような間隔で返事が来ない。蒼は大和の躊躇いが返信の遅さで手に取るように分かった。 『大丈夫だよ。キスも……もちろんそれ以上のことも何もしないから。ただ、隣で一緒に寝てあげるだけ』  蒼は大和の警戒心を解くようにそう送ると、しばらく経ってから恐る恐るめいた返信が来た。 『本当か?』 『ああ、もちろん!』  蒼は嬉しさの余り顔がにやついてしまう。 『今から行くから待ってて』  蒼は速攻でそう送ると、大和からまた少しの躊躇いが感じられる間で、『分かった』と返信が来た。  蒼はベッドから徹を起こさぬようそっと降りると、クローゼットから上着を漁った。丁度いいジャンパーを見つけると、蒼はそれを羽おり、スマホを取ろうとベッドに振り返ったその時だった。 「あ……」  振り返った先には、蒼のスマホを手に持ちながら、画面に釘付けになっている徹が立っていた。 「……どーゆうこと、これ……マジ在り得ない……」  徹は驚きを露骨に表した声でそう言うと、蒼を睨むように見つめた。  まずった。つい浮足立ってしまい、スマホを表にしたままベッドに置いてしまった。省エネモードにすると一々ロックが掛かり、その度にパスワードを入力するのが面倒で設定を怠っていたが、時すでに遅い。 「人のスマホを勝手に覗くなんて、お里が知れてるな、徹」  蒼は徹の睨みに、挑むように見つめ返した。 「どっちがだよ。俺言ったよね? 大和さんを苦しめたら承知しないって」 「ああ、言ったな、メキシカンレストランでだよな? よーく覚えてるよ」  蒼は徹が掴んでいる自分のスマホを苦々しく見つめた。徹は蒼のスマホの画面をもう一度まじまじと見つめると、それをベッドへ強く叩きつける。 「ああっ……信じられない。キスって何? これ、どいうこと? 大和さんは嫌がらなかったの? どうして、蒼さんが部屋に来るのを大和さんは待ってるんだよ!」  徹はベッドに叩きつけた蒼のスマホを見つめながら、声を荒げそう叫んだ。 (ごめん。徹。俺たちがこうなることは必然だから。)  蒼は激昂する徹を見つめながら、冷静に心の中で呟いた。 「悪いけど、俺は大和さんを苦しめたりなんかしてないから。何で勝手にそう決めつけるんだよ」 「なっ、何言ってんの? それ大和さんに聞いたの? 蒼さんが勝手にそう思ってるだけだろう?」 「聞いてはいないよ。確かに。でも俺には分かるんだよ。つーか、それは俺たち二人にしか分からないことだから、徹に説明してもしょうがないな……なあ、徹、大和さん待ってるから、俺を行かせてくれよ」  蒼は、今すぐにでもドアを開けて大和の部屋に行きたいのに、図体のデカい徹がドアの前に立ちはだかっていてそれが叶わない。蒼はその苛立ちに軽く下唇を噛んだ。 「行かせない……絶対に。言ったらメンバーにばらすよ? いいの?」 (ああ、くそっ……。)  蒼は冷静さを失いそうになったが、ここで徹に面倒な行動をされたら、今度こそ大和をひどく苦しませてしまうと危惧し、蒼は何とか心を落ち着かせる。 「ああ、分かったよ。行かないよ。安心しろ」  蒼は吐き捨てるようにそう言うと、来ていたジャンパーを脱ぎ捨て、ソファーに放り投げた。 「おい、朝までそこで番してるつもりか?」  蒼はさっさと自分のベッドに潜り込むと、未だドアの前に立っている徹に向かってそう言った。 「ああそうだよ。俺今日、ここで寝るわ」  徹はそう言うと、掛け布団を掴んでドアの前に座り、器用にそれを首元まで被るとぎゅっと目を瞑った。  蒼は深い溜息を吐くと、悔しさの余り、ベッドの中で体に力を入れ無音で叫んだ。 (ごめん。大和さん……今晩は行けない……。)  蒼は心の中でそう呟くと、今晩行けなくなったことを、ラインで大和に送っていないことに気づいた。でも、悲しさの余り送る気になれなくて、蒼は自分のスマホをぎゅっと握りながら目を瞑ると、睡魔が来るのを泣きたいような気持で待った……。

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