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第6話

 プライベートで落ち込んでいるときは、仕事の忙しさに救われることがある。  年が明けて年度末も迫って、健は各方面からのオーダーを抱えててんやわんやしていた。 「期初の事業計画の数字と、年末時点の見直しと、今期末の着地見込みまとめました。このままだと、為替差損も出てる状況じゃ目標値に合わせらんないですよ」  健の出したデータを覗いて、上司も苦悶の表情で頭を掻く。 「んあー、確かに埋めようがないな。経理にマージンないか確認してもらえ。月末に予定してるでかい予算あったら、削れるもん全部削ってもらって」 「既に予算執行停止したもの、けっこうありますよね……」 「乾いた雑巾絞るようなもんだが、やむを得んな」  只今こねくり回している業績データなど、経営層を納得させるための数字作りに過ぎず、毎月そのやりくりに奔走するのも正しいのかどうかよくわからない。ただ、経営層は見目の良い数字を求めるし、当然計画未達を嫌う。少しでも数字を積み上げようとする作業を、良し悪しは横に置いて必死にやる。健はサラリーマンだ。 「小野原さん、この間の分野別事業計画って来年度分できてます?」 「あーはい、今朝やっといたんであるはずです。ちょっと後でファイルのリンク送るんで待ってもらえますか」 「はーい、待ってまーす」  忙しいと体はきつい。でも心は置いておけばいいから楽だ。  少しずつ人が減っていくオフィスでほとんど最後まで居残って、来週の業績会議の資料が揃ったことを確認してパソコンを落とす。  うーん、と伸びたところで不意に私用携帯が鳴った。こんな時間に電話の着信は珍しい。 (ん、誰だ? ……――!?)  無防備に覗き込んだディスプレイに表示された名前に、健は大きく脈拍を乱した。  それは電話などかけてくるはずのない相手。健は一瞬息を詰め、周りに誰もいないのを確認して慎重に携帯を耳に当てた。 「……はい」 『俺だけど』  何年かぶりに聞く、固い固い実兄の声だ。 「何か、用?」  震えないよう喉に力を入れて問う健の声も固くなる。 『おまえ、日本に帰ってるのか』 「……うん」 『おまえのSNS見たらしい知り合いから聞いた。いつ戻った?』 「去年の十月の異動」 『そうか』  半年も黙っていた不義理について、兄は特に言及しない。 『……ならわかってると思うけど、間違っても実家に顔出そうなんて思うなよ』  用件など最初からわかったようなもの。相手は自分と親しく連絡を取り合うことなど望んでいない。帰国したことを知って仕方なく、こうして釘を刺しに電話を寄越しただけだ。 「わかってる」 『俺の家族の目にも触れるな。万が一どこかで会ってもこっち見たりするな。SNSも鍵かけろ』 「……わかった」  受け入れる返事を聞いて、一方的に通話は切られた。  目を閉じて、詰めていた息を深く吐き出す。次に吸う空気を肺一杯に満たして、しっかりと瞼を上げきった。  このことではもう健は傷つかないことにしている。無感情に終話ボタンをタップして、スーツの内ポケットに携帯をしまった。  健は、実の家族から縁を切られている。  高校三年生のとき、健のセフレだった同級生の男が、関係を切られた腹いせに、健の性指向を暴露する手紙を実家に投げ込んだ。最中のあれこれを隠し撮りした写真までご丁寧に添えられていて、言い逃れはできなかった。  父親は嫌悪に満ちた目で次男の存在を抹殺し、母親はノイローゼになった。精神科や心療内科を何ヵ所も連れ回され、治るものではないと聞かされる度に、おとなしかった母は半狂乱で健を(ほうき)で打ち据えた。  黙って耐え続けた健だったが、最後に箒の()が真っ二つに折れるほどの折檻を受け、頭からひどい出血をして六針縫う騒ぎとなり、父方の祖父母の元で暮らすことになった。  大学四年間の家賃と学費は、すべて祖父母からの援助だった。就職してから健は、毎月祖父母に感謝を込めて送金を続けている。  ――小野原。  大学に入学した当初は、まだかなり健の気持ちは荒んでいたと思う。  ――俺、小野原の作る曲好きだな。ギターのリフが、すごく好きだ。  一年生の夏に、飲み会で充希がそう言って声をかけてくれた。  ――前川の作った曲もいいけど、これは俺の好みね。おまえの作る曲の方が、ちょっと寂しそうで気になる。  明るく、普通の女好きの大学生を装っていた健の寂しさに、気づいてくれたことに驚いた。そしてそれが、たまらなく嬉しかった。  恋人に愛されて、それを家族にも許されて、健やかに笑う充希に自分の吐き出したものを好きだと言ってもらえて、健は生きていていいと認められた気がした。  叶わない恋なのは始まる前からわかっていた。それでも、惹かれる気持ちは止めようがなくて、誰に明かすこともなく膨らむ恋心を押し潰し続けた。  充希たちが卒業して会うこともなくなり、完璧な片想いはそのままの形で終わり、やがて健も卒業して就職する。その矢先、兄が結婚することになったと聞かされた。  ――彼女の方が、結婚式におまえも普通に参加するものだと思ってる。おまえのことは伝えてないし、今後も伝える予定はない。彼女に会わせるつもりもない。何か適当な理由をつけて列席しないでほしい。  拒絶に対して、特に感慨はなかった。自分の存在を認めない家族のために傷つくのがいやだった。充希が認めてくれた自分があればそれでよかった。  式は冬の予定だと言われ、さてどうしようかと思ったとき、海外赴任の話は渡りに船だった。仕事が理由で、それも海外に行っているとなれば、兄弟の結婚式を欠席する理由としてもまあ妥当だ。親にしても、次男は立派にやっていますと親戚に言えるネタができて体面も保てるだろう。  新人の分際で、という(そし)りを厭わず、健は必死で志願の手を挙げた。  海外にいる間、仕事には忙殺されど、健の心は随分と凪いでいた。家族への引け目を感じずにいられる場所は安寧を与えてくれて、そこでは恋も愛もなかったけれど、それでも日本にいるよりずっと良かった。  赴任期間が終わってしまうのが怖かった。帰国が決まってからも、家族と連絡を取るつもりは一切なかった。  迷惑にはなりたくない。愛されなくても認められなくてもいいから、これ以上疎まれたくない。いなくなるのが一番いい。  でも。  でも本当は。  あの二人のように、自分だって幸せになりたいのだ。

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