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第7話

 鞄を持ち、会社を出て週末の道を繁華街へ向けて歩く。  兄からの電話で感傷的になったのもあるが、それとは別に、健には毎週パトロールのようにいつものバーへ通う理由があった。 「タケルさん!」  ドアを開けると、カウンターで振り返ったチカが嬉しそうに笑って手を振る。 「よお」  その隣に健は鞄を置いて腰を下ろした。  チカの名前はチカイで、『誓』の一字を書く。それは二度目にここでチカと会ったときに教えてくれた。 「今日はあの人、来てないみたいだよ」  健にナッツを勧めながら、チカは言った。あの人とは、充希のことだ。  このバーで充希を連れ出した日、充希に意識が集中しすぎて健は気づいていなかったが、実は店内にチカもいたのだそうだ。  あまりに健の様子が必死だったので、手を引いて店を出ていったその相手が健の本命なのだろうと、チカは察したらしい。  ――タケルさん、一緒に飲もう。飲むだけ。  二度目に会ったときにそう言って健に話しかけてきたチカは、割り切ってるから大丈夫です、と額に書いてあるようだった。ついでに、前回置いて帰った金も、部屋代を超える分はきっちり突き返された。 「先週はタケルさんが帰ったあと、初対面っぽいおじさんと一緒に出てったよ」 「……そうか」  先週は健も店内で充希と誰かがキスしているところまでは目撃していたので、連れだって出ていったと聞かされても納得だった。充希にとっては自分とその誰かとは違いがなく、きっとその誰かとも自分としたのと同じ行為に及んだのだろう。 「……ねえ、タケルさん」  チカからいたわるような声をかけられて、健は覗き込んでくるチカと目線を合わせた。 「そんな顔して他の人とやっちゃうあの人のこと見張って、何がしたいの?」  慰めてくれるのかと思いきやざっくりと斬り込まれて、思わず笑って健は酒を噴き出しそうになった。 「おま……可愛い顔して抉ってくるね」 「だってわかんないもん。俺は可能性ない相手にいつまでも執着してたくない。いつどこに幸せになれるチャンスがあるかわかんないのに、立ち止まってたら勿体ない」  きっぱりと、チカは言う。 「おまえのそういうとこ、偉いと思うよ。有言実行してんだもんな。彼氏とはうまくいってんのか?」  水を向けると、チカは少しはにかんだ笑顔を見せた。 「うまくいってるよ。超ラブラブ」  可能性がないと判断した健に早々に見切りをつけたチカは、すぐに切り替えて前を向いて、今は通っている大学の同級生とつき合っているのだという。アプローチは相手からだったそうだ。 「正直、追うより追われる方が楽だよね。安心したいもん。不安な恋はしんどい。だから俺は、相手も不安にさせたりしたくないの。彼のことも目一杯愛したい」  少し、チカの目が潤む。健全な恋愛をしてるんだな、と健には眩しく映った。 「……チカの彼氏は幸せだな」  ぽつりと呟くと、チカは目を据わらせて健を睨む。 「何言ってんの、つまみ食いしてポイしたくせに」 「あー耳が痛い」  いたずらな笑顔を浮かべるチカから見れば、同じところにずっと立ち止まっている健の在り方はきっと、ナンセンスでしかないのだろう。  欲しい相手はただ一人。それでいて手に入らないことはわかっている。そんな恋、チカなら全力で切り替えていくのだろう。それが正解だ。  小一時間チカと飲んでいたが、その間に充希は店を訪れなかった。今週は空振りだったかと、健は一人で席を立ち店を出る。  何がしたいのかなんて、こっちが訊きたいくらいだ。他の誰かと店を出ていく想い人を見送るために毎週通うなんて、マゾの所業としか思えない。  でも、どうしても放っておくことができなかった。 「……小野原」  タクシーを求めて歩く道すがら、どこからか充希の呼ぶ声が聞こえた気がして、健は足を止めた。しかし振り返っても姿はない。  一瞬、健はひやりとした。ついに幻聴が聞こえるようになっただろうか。これは本格的に末期症状ではなかろうか。 「小野原ぁ、こっち」  けれど今度はもう少し大きな声が確実に呼び掛けて、健ははっと辺りを見回した。  終電時間を過ぎた夜中の通りは街灯に照らされているが、ビルの間の路地を少し入るとほとんど真っ暗で何も見えない。声はそちらから聞こえていて、目を凝らすとその先に蹲る人影が見えた。 「……柳瀬さん?」  携帯のライトで人影を照らし、その姿に健は息を飲んだ。 「柳瀬さん!!」  駆け寄った先の充希は、傷だらけの顔をしていた。 「なんで、いったい何が」  ライトの光に眉を顰めて目を眇める充希の目元は腫れてくちびるは切れていて、触りがたく健はただ右往左往する。 「……おい、消せそれ、眩しい」 「え、あぁ、すみません」  ライトを慌てて消すと、暗がりで充希は息をついた。 「悪い、金貸してくれないか。財布なくて帰れないんだ」 「え……? 財布ないって、なんで?」 「んー。ちょっとしくじったというか」  ポリポリと、充希はこめかみを掻く。 「ナンパされてついてった先で車に連れ込まれて、他に男が三人ほどいてさ。マワされて財布取られて、車から蹴り出されて逃げられたっつー不甲斐ない有り様で」  笑い混じりにさらりと説明されて、ざわっと背筋がおぞけ立った。怒りと困惑が綯い交ぜになって、言葉がすぐには出てこない。 「タクシー代だけ貸してくれよ、ちゃんと返すからさ」 「……警察行きましょう」  食いしばった歯の間から絞り出した健が腕を掴もうとするのを、充希は拒んだ。 「いい。そんな大ごとにするな」 「だけど!」 「いいっつってんだろ!!」  怒鳴られて、健はびくりと腕を引いた。その前で充希が深いため息をつく。 「……こんなの、初めてじゃねえよ。行けばどうなるか、俺も半分わかっててついてったんだ。お互い様だよ」  初めてじゃない? わかってた?  聞かされる言葉が信じられなくて、ひどい虚脱感に襲われて健は呆然と膝をついた。 「どうして……」  胸が痛くて、やるせなくて耐えられない。  こらえようとしても、くちびるを噛んでも、体の震えが止められなかった。  輪姦され、暴力を振るわれる充希の姿が眼裏に浮かぶ。恐ろしい光景を払いたくて、健は前髪を掴んでかぶりを振った。 「……だめだよ。やっぱりだめだ。こんなことしてちゃだめだ」  震える声での訴えを、充希は鼻で嗤う。 「なに? 恭介が悲しむって?」 「違う」  俺が。俺が悲しいし、俺が痛いんだよ。  あなたを愛しているから。 「……行きましょう。タクシー拾います。立てますか?」  云えない言葉は目を閉じて飲み込んで、健は充希の体を支えて立ち上がった。  通りに出ると、数分で空車のタクシーが通りかかり、健は後部座席に充希を乗せた。そのまま自分も隣に乗り込む。 「おい」 「部屋まで送らせてください。手当てをしたいです」 「……好きにしろ」  運転手に住所を告げると、充希は黙って目を閉じてしまった。

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