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第8話
真新しい傷に覆われた横顔が、車窓から入り込む街灯の光に照らされて規則的に明滅する。痛々しいのに、それすらきれいだと思ってしまう。
目的地に近づくと充希は目を開け、運転手に細かい道を教え、小さなアパートの前で停車させた。
健が精算し、先に車を降りて充希を支えながら降ろす。降りると充希はよろけながら先を歩き、外階段を二階へ上がった。
扉を開けて中へ招かれて、健は少し驚く。部屋は八畳ほどの学生向けと思しき質素なワンルームで、中は転居直後かと思うほど物がなかった。
シングルのパイプベッドと、パソコンデスクと本棚と、電子ピアノ、あとは冷蔵庫と電子レンジくらい。テレビもなく、小さなオーディオが床に無造作に置かれている。
「公認会計士、でしたよね」
本棚にはそれ関係の専門書が並んでいて、OB会で話したときに聞いた職業は聞き間違いではなかったことを確認した。
「なんか、高給取りのイメージでした。そうでもないんですか?」
エアコンを入れて、充希はダウンコートを脱ぎながらベッドに腰かける。
「収入は悪くないな。一人で生きるには十分だ」
「……でも、すごく質素な部屋ですね」
「寝に帰るだけみたいな部屋だからな。金かけて広いとこ住んでも寂しいだけだろ」
ダウンコートの下はシャツとニットカーディガンを着ていたが、そのシャツはみぞおち辺りまでのボタンがちぎれてなくなっていた。はだけた胸元にも痣が覗いて、ひどい暴力に晒された事実を健に伝える。
「……二人で住んでた頃の家具は、引っ越すときに全部処分したんだ。一緒にいた頃の思い出が強すぎて、持っていられなかった」
ぼんやりとした視線が、ふと本棚の中段に向けられた。そこには写真立てに収まった芳井の笑顔と、小さな白磁の瓶のようなものが置かれている。
「骨壺だよ」
健の視線に気づいた充希が教える。
「骨壺……?」
「恭介のご両親に無理を言って、分骨していただいたんだ。恭介に、傍にいてほしくて」
充希の表情に、自分には向けられない穏やかな笑みが浮かんでいることに健は気づいた。
ああ、やっぱり柳瀬さんは今も芳井さんを愛しているんだ。
それが実感されて、嬉しいような悲しいような、複雑な気持ちになって健は俯く。
「……ピアノ、置いてるんですね。今でも弾いたりしますか?」
少し話題を変えたくて、健はこの殺風景な部屋では異質な存在感を放っている電子ピアノを指差した。その表面はかなり埃っぽい。
「いや……もう弾いてない」
指が動くか確認するように、充希は両手を握ったり開いたりした。
「おまえは? たまにはギター弾く?」
「弾きますけど、最近弾いてないから弦錆びてるかも。このところ忙しくて」
「そっか。久しぶりに聴きたいな……俺、おまえのギター好きだったよ」
穏やかに、充希は遠い目をする。昔もそう言ってくれたことを、健は鮮明に覚えている。それは充希への恋のきっかけでもあった。
「楽しかったよな、大学の頃」
健は頷く。本当に楽しかった。片想いは苦しかったけれど。あの頃の充希は、本当に幸せそうだった。
「……救急箱はありますか?」
「あるけど、いいよ別に、ほっときゃ治るし」
「傷になってるところだけでも」
譲らない健にため息をついて、充希はクローゼットから救急箱を取り出した。中身は開封済みのガーゼや傷薬がやけに充実していて、こんなことは初めてではないと言っていた充希が、過去に自分で手当てを施したのだろうことが察せられた。
「……時々、痛めつけられないと生きてる感覚がなくなることがあるんだ」
床に膝立ちになった健から手当てを受けながら、おとなしくベッドに座った充希が独り言のように呟く。
「そういうときは、わざとやばそうなやつを誘うこともある。それで危険な目に遭ったって、そりゃ自業自得ってもんだ」
それが今日だったってこと? 痛めつけられたかったってこと?
「財布とられて困ったのも初めてじゃないから、今日は現金しか持ってなかったんだ。免許証と保険証とクレカの停止や再発行、超めんどくさかったの、一応学習してんだよ」
笑うな。笑い話になんかならない。笑えねえよ。
くちびるを噛んだ健の視線を、不意に充希が捉える。
「小野原」
「……はい」
「おまえ、俺のことが好きだろう」
断定的に言われ、驚きはなく、健は苦笑した。
ばれてた。そりゃそうか。
「はい」
「いつから? 俺と、セックスしたから?」
「いえ。大学一年の頃からです」
「まじか。十年経つぞ」
「気は長い方なんです」
手当てを終えて救急箱を閉めて、健は充希と向き合って床に正座した。
「……好きになってくれとは言いません。せめて、寂しいときの相手は俺で我慢してくれませんか。少なくとも危険はないです」
お願いします、と静かに頭を下げる健を、暫し黙って充希は見つめる。随分考えてから、小さくうん、と頷いた。
「……わかった」
了承する返事に、健はぱっと顔を上げた。
「ほんとですか!」
「代わりに、おまえ毎週末ここに来い。一回でもサボったらそこで終わりだ。初回は一ヶ月後」
言われて、すぐに健は携帯を取り出してスケジューラを開いた。
「四月の第二金曜から、でいいですか?」
「ああ」
「わかりました。金曜は絶対出張入れません」
「出張は仕方ないだろ。仕事しろ」
「でも入れません。あと、インフルエンザとかかかったらどうしましょう」
「それも来るな! 当たり前だろ、考えろよ」
「だって、それでサボりカウントされて出禁にされたら困るから……」
四月第二金曜に予定を入れて、一週間前と前日と当日にアラームもセットして、健は携帯を胸ポケットにしまう。
そしてもう一度膝立ちになって、充希に腕を伸ばした。
「……今日はさすがに無理だぞ」
意図を誤解した充希が困惑げに眉を寄せるのに、健は苦笑する。
「わかってます。抱き締めるだけ」
背を抱くと、充希は抵抗せずに健の肩に頬を預けた。体は冷えきっていて、かなり長い時間あの路地にいたのだろうと思われる。
誰か、知り合いが通りかかるのを待っていた? それとも俺を?
「……小野原」
「はい?」
「俺の連絡先、変わってないよ」
先日拒絶された質問へ不意打ちのように回答が返って、健は戸惑った。
「電話、通じるし。ラインも。残業とかでも、都合悪いときは連絡しろよ。無理させるつもりはない」
「……はい」
充希は基本が優しいから、十年も健が片想いしていたと知って、情でもわいただろうか。
それでもいいと思った。絆されただけだとしても、傍に行くことを許された。他の男と連れ立って店を出ていくのを見守るだけの日々に比べれば雲泥の差だ。
解きがたい腕をそれでも解いて、健は充希から離れた。
「……じゃあ、今夜は休んでください。体、つらいでしょう」
離れた健を、充希の目が追う。
「おまえ、どうすんの。こんな時間に」
「俺は、始発までどっかで適当に時間潰します。俺がいたんじゃ休まらないですよね」
「……」
立ち上がった健を物言いたげに充希は見つめたけれど、言葉は何も発しなかった。
「お邪魔しました。おやすみなさい」
「……おやすみ」
健が充希の部屋を出ると、空は雲ひとつない晴天で、放射冷却の寒い空気に星が冴えざえと光っていた。
ゆきずりの関係から、ようやくセフレに昇格した、といったところ。それすら昇格と呼べるか怪しいし、この先の格上げの見込みもない。
それでも、夜道を歩く健の足元はどうしようもなく浮揚した。
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