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第9話

 目標や約束が先に待っていると、人はけっこうそこまで頑張れる。怒濤の忙しさの期末期初を、健は充希との『一ヶ月後』を励みに乗りきった。  約束ってすごい。その日そこに行けば確実に会える、とわかっているだけで胸のいやな焦燥が消える。そんな約束を、充希が自分としてくれるとは思わなかった。  四月の第二金曜、仕事を終えて七時過ぎに健は充希にメッセージを送った。 『仕事終わりました。今から伺って良いですか?』  ドキドキしながら画面を見ていると、すぐに既読がついて、『どうぞ』と短い返信があった。そんなことだけでちょっと泣きそうになる。  なにこのつき合ってる感。恋人関係疑似体験。あくまで疑似だけれど。  一人で感極まっていると、またピロンと通知音が鳴った。 『飯食った?』  それに『はい。社食で夕食提供があるので』と返して送ると、また『そっか』という短い返信。それをしばらく眺めて、はっとした。 (もしかして一緒に飯食おうの誘いだった!?)  無自覚に充希の厚意を袖にしたかもしれないことに気づいて、思わず携帯に額を打ちつける。  そういえば健は、経験人数に反しておつき合い経験はゼロなのだ。恋愛の機微に対する感度は中学生並みかもしれない。  もしさっきの問いへの返事を間違えなかったら、どうなっていただろう。充希の部屋で一緒に夕食を摂っただろうか。それとも外で待ち合わせてどこかの店で? そんなデートみたいなことが、自分に許されたのだろうか。 (だけど、所詮セフレだしな……)  盛り上がりかけた熱を、自分で鎮火する。期待するもしないもなく、自分の立場は弁えておかなければ。  電車とバスを乗り継いで、充希の部屋へ向かう。呼び鈴を鳴らすと、少しして内側から鍵が開いた。 「……よう、お疲れ」 「お疲れ様です。少し飲みませんか」  そう言って健は、途中のコンビニで買い込んできた袋を掲げて見せた。  部屋に上がり、ベッドに座った部屋着姿の充希の顔をよく見て安心する。ひと月前の暴行の傷はきれいに癒えて、痕も残ってなさそうだ。 「柳瀬さんはチューハイとか飲みます? ビールオンリー?」 「あれば飲む」 「じゃあ余ったら置いとくんで、飲んでください。いろいろいっぱい買っちゃった」  床に座って缶やらつまみやらを広げ始めた健を、充希は少し困ったような顔で見ている。それに気づいて、健は浮かれていた手を止めて眼鏡を押し上げた。 「……あの。なんかだめでしたか」  問うと、充希は右手で左の耳朶をつまむ。 「いや……飯も食ってくるって言ってたから。てっきりやりにだけ来るのかと思って」  あぁ、と健は思った。  部屋着姿の充希、彼はよく見ればもう風呂上がりだ。その行為だけを目的に訪れる健を待って、準備を済ませているということなのだろう。つまりやっぱり、セフレ要員としての健以外に需要はないということ。  また、胸が空っぽになっていくのを感じる。さっきまであんなにあたたかく、詰まるほどの高揚を感じていたのに。 「あ……じゃあ、俺もシャワー借りていいですか」  そうであるならせめて職務を全うせねばと、視線を外して腰を上げた健に、けれど充希は、慌てたように腕を掴んできた。 「あ、うん。着替え置いてる。そんで、風呂出たら一緒に飲もう」 「え……」  振り返って驚いた。充希が笑っている。 「話とか、まともにできる時間ないと思ってたから、よかった」  初めて抱いた日からこっち、皮肉に歪んだ笑いくらいしか向けてくれなかった充希が。  行ってきますと言い置いて、健はバスルームに逃げ込んだ。洗濯機横のかごには、バスタオルと新品のルームウェアのセットが置かれていた。それを目にしてまた健は駆け出したくなった。  充希が、自分のために。そう思ったら顔から発火しそうだ。  やばい。やばい、これは勘違いする。  柳瀬さんも、やるだけじゃなくて俺と一緒に過ごす時間を望んでくれてたってこと? 俺がもう夕食済ませたって聞いて、やるだけが目的かと思って、少しは落胆してくれてたってこと? それでも俺のためにわざわざ着替え準備して、俺が来るの待っててくれたってこと? 「好きすぎる……」  シャワーの水音に紛れて、苦しく吐き出す。  この気持ちをどうしたらいいんだろう。もう気持ちは伝わっている。これ以上こちらからは何もできない。出口を得たと思ったら、やっぱりその先も袋小路だ。  シャワーを終えて部屋に戻ると、ベッドに腰掛けた充希はビールのプルトップを上げているところだった。横にあるパソコンデスクには、既に一本空いた缶が置かれている。 「お先ー」 「あ、ずるい。もうそんな飲んで」  健も一本選んで、充希の座る横の床にベッドを背もたれにして腰を下ろした。すると、充希がぺたりと隣に降りてくる。 「床、冷たくないですか?」 「平気」  言いながらも、寒いのか充希はぴったりと腕を寄せてくる。くっついた左手に缶を握って、その薬指には指輪が光っていた。 「湯冷めしちゃいますね」  健はベッドから毛布を取って、二人の肩を覆うようにして掛けた。それを呆れたような顔で充希が見上げてくる。 「おまえってさ……」 「? 何ですか?」 「なんつーか、根がタラシなんだろうな。こーゆーことさらっとやったりさ」 「……なんかおかしいことしました俺?」 「いや」  目を伏せて、充希は笑った。 「おまえとつき合うやつは、幸せだろうなと思ってさ」 「……」  何か聞き覚えがあるな、と思ったらこの間自分がチカに言ったのと同じ台詞だ。  じゃあ柳瀬さんどうですか、と軽く言いかけて、健は引っ込めた。瞼を上げた充希が、本棚の中段の芳井と目を合わせていたから。  線を引かれた。つき合う気がないからこそ出る台詞。幸せだろうなと思うその相手は、自分ではないと。  大丈夫、その線はちゃんと健自身の中にも引いてある。越えてはいけないこともわかっている。  大丈夫、ちゃんと笑える。 「どうかな。俺は、誰のことも幸せにしたことがないから」  わざと露悪的に笑うと、充希も噴き出した。 「悪い男だなー。百人くらい斬った?」 「そんなに俺なんかに寄ってこないですよ」 「三分の一くらい?」 「……半分くらい、かな」 「うわー、やっぱ悪い男だ!」  毛布にぬくぬくとくるまりながら、充希は笑う。  笑っていてほしいと健は思った。健に対して警戒心を剥き出しにしていた頃の仏頂面より、よっぽど充希らしい。  それぞれが缶を飲み干すまで互いの仕事の話をして、軽い音を立てて空き缶が床に置かれたタイミングで健は充希の左手を握った。 「小野……」  眼鏡を外して、てのひらで充希の白い頬を包んで、くちびるを寄せる。一ヶ月前に切れて血を流していた場所を舐めると、充希がびくっと震えた。 「大丈夫です。今日は、痛いことは一切なしです」  わずかな怯えを宥めて、キスを深める。力を失った充希は、ベッドに頭を預けるようにあおのいた。  毛布の下でこっそりと服の中を窺う。すると充希が止めるように手を重ねてきた。 「小野原……一応俺、性病の検査してきた。大丈夫だった。全部陰性だった」  瞳を潤ませて、小さな声で充希は言う。 「でも、HIVは、ほんとはレイプされてから二、三ヶ月あけないと確実な結果は出ないらしいんだ。だからゴムはつけて、オーラルはしないでほしい」  切実な訴えに、健は髪を撫でて頷いた。 「……検査のために、一ヶ月後からだって言ってくれたんですか?」 「……もし何か持ってて、おまえにうつしたりしたら大変だから」  自業自得な後悔に、充希は目を伏せる。  俯いてしまった頬をもう一度抱いて、頬に耳元に、何度もくちづけを繰り返すと充希が健を見上げた。何か言いたげだけれど、やはりくちびるは開かれない。 「柳瀬さん、好きです」  留めておけず、健は告げた。 「……うん」  頷きすら躊躇うように、充希は何度も瞬く。望むような(いら)えが返らないことはわかっているから、健はそれで構わない。

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