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朱夏 3

 自分よりも年若いからかつい気楽にやり取りができると思ってしまっていたが、翠也は俺の後援者の息子だ。  面倒を見て貰っている俺が気安く話しかけていい相手ではない。 「いえ、図々しくなんか……むしろその方が仲良くなれそうで嬉しいです」  そう言うと彼はゆったりとした動きで廊下を歩き出す。  きしり きしり と、木が擦れて立てる悲鳴が小さく足元で規則的に繰り返される。 「卯太朗さんは日本画とお聞きしましたが……」 「そうだよ、翠也くん  あ、名前で呼んでもいいかな?」 「はい」 「翠也くんは油絵かい?」  きしり  と音を止め、翠也はこちらを振り返った。  瞬く目は疑問を含んでいたが答えを見つけることができなかったようで、小さく苦笑をして「さすがですね、専門の方は違います」と肩をすくめる。 「いや、油絵の具の臭いがしたので……」  着物に焚き染められた香を縫う微かな臭いは、古くからの友人がさせているものと同じものだ。  身近にそう言った人間がいたからこそ分かったことであり、そいつがいなければ翠也が油絵を足して嗜んでいるなんてわからなかっただろう。 「合いませんか?」  いきなりそう問われて面食らった。 「は?」 「いえ、父や母は油絵が好まないようで、僕には合わないと……」  なるほど。  屋敷自体が洋館でなく、峯子の装いも和服なのだから主の趣味の傾向が洋か和かと問われればおのずと答えは出る。  しかしだからこそ、俺に援助を申し出てくれたのだろう。 「いや、申し訳ない。くだらない私事をつい……離れですが  」 「進めばいい」  工房兼居室として宛がわれる離れへと向かう廊下に足を向けていた翠也が振り返る。 「はい?」 「先達すべてが恵まれ迎合されてきたのではない、否定され、打ち据えられた中からこそ産まれた傑作もあるのだから、逆境はむしろ心を研ぎ澄ますよい機会だ」 「は……」  翠也の切れ長な目が弧を描く。 「ははっ!」  破顔が惜しみなく披露されることに、今度はこちらがぽかんとする番だった。 「ありがとうございます」  口角の上がった微笑みは年不相応の青臭い色気を含む。 「父を恐れて肯定してくれる人などいなくて」    少し草臥れたような言葉が、彼が両親の反対を押し切って油絵を嗜んでいるのだと俺に教える。 「嬉しいです」  そう言って翠也はまた柔らかに笑うと、きりし きしり と音をさせながら工房のあると言う離れへと歩き出した。

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