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赤い写生帳 1

 最後の色を乗せ終わり、黒田の屋敷に納める絵が完成した。  筆を置いて、ほ と息を吐く。 「  翠也くん、できたよ」  そう廊下から声をかけると、画架に向かっていた翠也の手が止まった。  邪魔をしてしまったかと思ったが、こちらを振り返った翠也の顔には笑みが浮かんでいてほっと胸を撫で下ろす。 「見るかい?」 「  はい」  絵の行く先を知っている翠也はどこか複雑そうな表情をし、慎重な様子でこちらへとやってくる。  華やかな柔らかさを持つ絵が数点、それとは別に一枚、大きく翼を広げた鳥の絵を描いた。 「華やかで壮観、ですね」 「うん、暗い屋敷だったからね。これで少しでも華やいでくれたらいいのだけど」  なんの力にもなれない俺の代わりに、わずかでも多恵を慰めてくれたらと。 「これは……一枚だけ感じが違いますね」 「あぁ」  高く飛ぶ鷹。  華やかよりは雄大な雰囲気を持つそれは、じきに産まれてくる子供へのせめてもの気遣い。  生涯名乗り出ることのできない子供にしてやれる、精一杯のものだ。  多恵の選択を遮る勇気も、今の生活を捨てる度胸も臆病な俺にはない。  後ろめたく思いながら覆い隠して行くしかない。  けれど、多恵と共にその秘密を背負うくらいなら……できる。 「いつ、あちらに?」 「乾かないとね、今日は無理だよ」  告げて翠也の方に向き直ろうとしたところで、みつ子が工房を覗き込んだ。 「失礼します。坊ちゃんにお荷物が……」 「荷物? それなら持ってきてもらえたら」  いえそれが と言うみつ子の戸惑う姿に顔を見合わせた。 「ご無沙汰しております」  そう言ってきっちりと頭を下げたのは、この場所で顔を見るとは思いもしない人物だった。  隙なく着こまれた燕尾服の新見は、挨拶をすると後ろの荷車を示す。  そこに積まれた写生帳の山を見て、翠也と二人で顔を見合わせた。 「こちらを南川翠也様にお渡しするよう、言付かって参りました」 「言付かって……って、あの馬鹿! 何を考えてるんだ? 新見さんをわざわざ遣いに寄越すなんて……」  新見は並木家の執事なのだから、並木夫人の情夫だからと言ってこんな遣いに出すように言っていいはずがない。  そう思うと玄上が酷く横暴に見えて腹が立った。 「それで? 自分は顔も見せないんですか?」 「はい。ですので不肖ながら私めが」 「まったく! ……しかし、これは  」  俺も困惑しているが、荷車を引く男も困惑しているように見える。 「南川様のお役に立てて欲しいと申しておりました」 「僕の? 役に?」  写生帳の山を見て、ぽかんと口を開いていた翠也が繰り返す。

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