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金木犀 8

「薬は苦手かい?」 「む、昔のことです。あの……少しだけ、近くでお顔を見せてもらえないでしょうか?」    微かに掠れた声の懇願は、しかし聞き入れるのは難しかった。  できる限り整えたとは言え、みつ子が見てわかるほどの汚れた姿を翠也に晒すことはできない。  戸の影でうじうじとしている俺に気づいたのか、小さく笑って「つまらないことを言ってしまいましたね」と続ける。 「あっいやっ……違うんだ!」 「悪いものを移しては申し訳ありませんから」  その寂しげな様子に咄嗟に駆け寄った。 「ちがっ、泥だらけなんだっ」  俺の頭から爪先まで眺めて、微かな笑いを浮かべる。 「まるで小さな子供のようですね」 「猫を追い払ってて……」  翠也は俺の髪に絡んだままの花がらを摘まみながらぽつりと返す。   「……猫」 「みっともない恰好を見せたね、風呂に行ってくるよ」 「そうですか……」  熱のせいか、ぼんやりと頷く翠也に背を向けた。 「じゃあ、流してからまた来るから」 「  ────いいえ」  背にかけられた硬質な声に思わず足が止まり、理由を聞く前にどっと心臓が早鐘を打つ。  急に変わってしまった雰囲気が何を示すのか、わからないような人生は歩んできていない。   「金木犀の、良い香りですね」  冷たい声音のまま、翠也は続ける。 「不浄に立った際、るりさんにお会いしました。あまりな姿についどうしたのかと尋ねたんです」  胸の内は凍るようにひやりとするのに、鼓動は今までにないほど速い。 「貴男と相撲を取っていた と」 「…………」  振り返ることもできずに、絞首刑を待つ気分で拳を握り締めた。 「彼からも良い香りがしました」  その言葉を最後に口を噤んだのか、言葉は続かない。 「  ……猫を追い払った後に、相撲を取ったんだよ」  鼓膜を破るような鼓動の音に震えそうになる。  ほんの数秒のやり取りなのに、気が遠くなりそうなほど長い時間にも思えて、ぐっしょりと濡れた額に手を遣った。 「そう、ですか……」  納得してくれたらしい言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。 「卯太朗さん」 「うん?」 「猫に掻かれた傷はきちんと手当てなさった方がよろしいですよ」 「  ────っ」  さっと首に手をやると言う、愚かしいほどの狼狽えぶりが翠也の視線に晒されて……  一瞬視線が絡んだ後、翠也は諦めたように俯いた。 「化膿すると、いけませんから」  わずかに荒く揺れる肩は熱のためか? それとも激情を抑えようとしているだけなのか。  ただ、彼は苦し気に俯いていてそれ以上言葉を発さなかった。  

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