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雪のような人 5
「とりあえず、君の学力を見たいので、テストを見せていただけませんか?」
彼がこちらに近づいてくる。見えない扉が、あっという間に取り払われてしまったかのように、簡単に距離を詰めてくる。彼との付き合い方が、まったく分からない。
心臓が音を立てている。彼が折り畳み椅子に座った。
「どうかしましたか?」
思わず後ずさりした俺を、彼が不思議そうに見上げる。その顔を見て、なぜか野良猫を思い出した。高校に行く途中、たまに見かける黒猫。遠くからじっと俺のことを見つめてくるくせに、少しでも近づくとぴゃっと逃げていく。
机の真ん中にある引き出しに、手を伸ばした。彼との距離が縮まる。彼はあの猫と違って逃げなかった。俺は無言で引き出しを開けた。
中には、ぐちゃぐちゃになったテストの答案が詰め込まれていた。高校一年生の一学期中間テストの答案から、今までのものが全てここに入っている。
彼は一瞬目を細めると、その中の一枚をつまみ上げた。机の上で丁寧にしわをのばして広げる。二年生の二学期末の数学のテストだった。二〇点という赤ペンで書かれた点数が、学校で見た時よりもはっきりと浮き出ているような気がして、俺は恥ずかしくなった。
「ありがとうございます。しばらくこちらに集中させていただきます。君はこれを解いておいてください」
彼が鞄からA4版の英単語テストを取り出して、机に置いた。
「学校でどの単元まで習っているのか分かりませんでしたので、とりあえず高一で習う重要単語でテストを作ってみました。まずは自力でやってみてください」
「はいはい」
俺は生返事をして、シャープペンシルを手に取った。左側に英単語があり、右のカッコに日本語で意味を書いていく形式のテストだ。一目見ただけで分かる。これは解けそうもない。
彼の気が済むまで、勉強しているふりをしながら、彼を観察することにした。
「なんですか。僕の顔を見ても問題は書いてませんよ」
*
しわしわの紙が無造作に詰まっている引き出しの中から、彼は数学と英語の答案用紙をより分けて、自分の膝の上に並べていた。俺が彼を観察しすぎたせいで、「恋愛対象は女だ」とお互い確認する羽目になるという事故があったものの、それ以外の会話は発生しなかった。時折、彼の口から「これは……」や「うーん」などと声が漏れるのが気になるが、これを深掘りしても、絶対に褒められる展開にならないことは分かりきっていたので、やめておいた。
テストをたっぷり十五分ほど眺めたあとに、彼が言った。
「これ、写真撮らせてもらっていいですか? 今後の指導の参考にしたいです」
「いいよ」
恥ずかしい気持ちはあったが、「指導のため」と言われてしまっては断る理由がない。俺は英単語テストを持ち、勉強机から離れた。
「撮る時、机使ったら? 手で持ったままだと大変でしょ?」
「恐縮です」
彼が鞄から取り出したスマートフォンには、黒い手帳型のカバーがはめられていて、また黒猫のことを思い出した。
机に並べたテストを写真に収めた彼は、テストを引き出しにしまってくれた。鞄を手にして俺に向き直った。
「ありがとうございました。次までに教材を準備してきます」
「うん」
「あ、それと、今日の英単語テストは、辞書を使っていいので、次回までにカッコを埋めておいてくださいね」
――やってないこと、バレてた。先生は答案用紙に集中していたし、見られていないと思ってたのに。
俺は、気まずさから俯いて「うん」と答えた。
「田丸さんにご挨拶してから帰ります。それでは次の金曜日に」
先生が一礼して部屋から出ていく。
ドアが閉まると、俺は深く息を吐いた。
――なんかすごく緊張した。
どんな人とでも仲良くなるための努力をする。それが俺のポリシーだ。だけど、先生とは仲良くなれそうな気がしない。先生の守りが固すぎるからだ。
会話は普通にできるが、常に敬語なのもあって、一定の距離を取られている気がする。
まるで猫みたいな人だ、と思った。触らせてくれるのかなと思って近づくと、あっという間に逃げられる。適切な距離が分からない。
どうやって彼を攻略したらいいのだろうか。俺は英単語テストを片手に、ため息をついた。
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