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雪のような人 6
金曜日の一八時三十分。彼は約束の時間きっかりに現れた。
俺が椅子に座るやいなや、彼が鞄から冊子を取り出した。
勉強机の上に置かれたのは、中学一年生の英語と数学の問題集だった。手作りプリントではなく、市販の物だ。
「まずはここから始めてみましょう」
彼がすまし顔で言い、折り畳み椅子に腰掛ける。
――いくら勉強ができないとはいえ、aとanの違いくらいは分かるし、正の数・負の数の四則演算だってできる。
ここまでバカだと思われたのか、とすっかりやる気を失ってしまった。シャープペンシルを持つどころか、問題集を開く気にもなれず、大きくため息をついた。
「どうしたんですか?」
その問いには答えず、俺は横目で彼を見た。相変わらずきれいな顔が、不思議そうな表情で俺を見返していた。
「勉強ってなんでしなきゃいけないの?」
口をほとんど動かさずに喋ったから、小さな声だった。彼には聞き取れたらしく、その口角がわずかに上がった。
「君はどう思いますか?」
「分かんないから聞いてるんじゃん。将来役に立つの?」
回答がもらえなくて、いらいらする。爪で机を叩いた。耳に刺さるような音が部屋の中に響く。
「君は、部活に入っていますか?」
彼は俺の質問に答えてくれない。脈絡のない質問に、怒りよりも困惑が|勝《まさ》った。
「……うん」
「何部ですか?」
「バスケ部」
「練習は一日何時間くらいやるのですか?」
「二時間くらい?」
完全に彼に会話をリードされているのが悔しくて、わざと一言だけで返してやった。でも。
「部活は楽しいですか?」
そう聞かれたとき、思わず頬が緩んでしまった。汗と熱気でいっぱいの体育館の匂いと温度、そしてキュッキュッという靴音を思い出したから。
「うん。特にシュートが決まった時は最高!」
声が弾んでいるのが自分でも分かった。恥ずかしい。彼が微笑みを浮かべた。
「では、プレイ中に『このシュート、将来役に立つのかなぁ』って思ったことありますか?」
「そんなの、あるはずないじゃん!」
食い気味で答えると、彼が唇をさらに弓なりにした。
「将来役に立たないかもしれない勉強はしたくないのに、将来役に立たないかもしれないシュートは打ち続けられるんですか?」
「……は?」
「君は、勉強をしなくていい理由がほしいだけです」
はめられた、と思った。俺は世間話をしているつもりだったが、彼はお説教の材料を集めていただけだったのだ。俺の熱が急激に冷めていった。彼は俺の変化に気がつかない様子で、|滔々《とうとう》と語り出した。
「本当に夢中になっていることに関しては、『役に立つかどうか』なんて考えもしないんです。そんなこと関係なくやってしまうんです。だから、『この勉強が役に立つのか』と聞いてくる人は、答えがほしいんじゃない。勉強をしていない自分を正当化するための理由がほしいだけなんです。仮に、僕が理路整然と『こういう理由で勉強はした方がいいですよ』と説けたとして、君は『じゃあやろう!』と思えますか?」
「そりゃあ、まあ、思えないけど……」
唇を尖らせ、拗ねたような声を出してしまったが、彼の表情は変わらない。人差し指で眼鏡を上げながら続けた。
「だから、将来役に立つか立たないかなんて、どうでもいいことを考えてる暇があったら、英単語の一つや二つを覚えた方が有意義です」
会うのは二回目、かつ、未だ何も指導してくれていない彼が先生然としているのが気に食わなくて、俺は問題集と彼から顔を背けた。自分の指を見つめ、いじわるを言いたくもなる。
「じゃあ、こうやって俺に偉そうに説教してくる先生は、『これって将来役に立つのかな』なんて、一回も考えたことないんだよね?」
沈黙。「ありません」と即答されるとばかり思っていたのに、肩透かしを食らった気分だ。
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