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雪のような人 8
「俺でも分かるし」
「問題集を開かなくても? 君は超能力者なんですか?」
俺は黙って俯いた。
「僕はここにお喋りをしに来ているわけではありません。勉強を教えに来ているんです。そういえば、初日に渡した英単語テストは? ちゃんとやりましたか?」
彼に言われて初めて存在を思い出す。
「……忘れてた」
「馬鹿なんですか?」
彼の冷たい声を聞いて、記憶のトリガーが引かれる。
「『バカって言われると、ほんとにバカになる』んだぞ! 先生のせいでバカになるかもしれない!」
「安心してください。君は僕に会う前から馬鹿です」
「なっ……!」
あまりの衝撃に、言葉が出なくなった。
「馬鹿だから家庭教師を雇われたんでしょう? 君は、馬鹿のままでいいんですか?」
彼が眼鏡を上げた。冷ややかな二つの目が、挑発するようにこちらを向いていた。
「そりゃあ勉強できたらいいって思うけど、俺には無理だし――」
「勉強と、ちゃんと向き合ってみたことはありますか? 逃げ続けてきたんじゃないですか?」
詰問するような口調に、いらだちを覚える。
「そんな言い方することないだろ!」
「僕は君に勉強を教えるために雇われています。それを遂行するためには、君の協力が不可欠なんです」
「俺が悪いって言うのかよ」
手が震えた。
――この子、馬鹿だから。
母さんの困ったように笑う顔が頭に浮かんだ。親戚の前、近所の人の前、友達の前、担任の先生の前、そして、角巻先生の前。
「先生も、俺が勉強できないのは、俺のせいだって言いたいんだろ?」
――どうせ俺は、誰からも期待されていない。
「論点をすり替えないでください。今は勉強が『できる』『できない』の話をしているのではありません。『やる』か『やらないか』です。君は一度も問題集を開こうとしませんでした。君にやる気がないのなら、僕がここにいる意味はありません。田丸さんに無駄金を払わせてしまうことになるので、僕は今日限りで君の家庭教師を辞めます」
「なんでそうなるんだよ!」
「君が諦めてしまっているのが、もったいないと思ったからです!」
彼が声を荒らげた。彼の大きな声を聞いたのは初めてだった。
取り繕うように眼鏡を上げ、彼が咳払いをした。
「すみません。取り乱しました。いったんお手洗いに行ってきます」
彼が出ていき、俺と中一向けの問題集が部屋に残される。
「くそっ」
俺は彼が座っていた椅子を蹴り上げた。当たり前だが、ちゃんと痛い。ぶつけたすねから痛みが上がってきて、涙がにじんだ。
――やる気がないわけじゃない。怖いんだ。俺が本当に「バカ」で、中一の勉強すらできなかったら? 先生にも母さんにも見放されてしまうかもしれない。そうしたら俺は、この先どうやって。
そこまで考えた時、彼の大きな声がもう一度聞こえた気がした。
『君が諦めてしまっているのが、もったいないと思ったからです!』
もったいない。俺に向かってそんな風に言ってくれる人はいない――いや、正確に言えば、もう《《いなくなった》》。父さんは俺に、「簡単に諦めるなんてもったいない。諦めるのは『もう充分やった、これ以上は無理だ』と思うまでやってからでも遅くない」と教えてくれた。
母さんや友達や当時の担任の先生ですら、「悠里は馬鹿だから」と笑っていたのに、父さんだけは俺のことを諦めないでくれていた。
――角巻先生。先生も俺のこと、「もったいない」って思ってくれるのか?
恐る恐る、数学の問題集を開いた。
1.次の数について、正の符号または負の符号をつけて表しなさい。
(1)0よりも5大きい数 (2)0よりも4小さい数
文で書いてある数字をプラスとマイナスを使って表す問題。ほっとした。これなら「バカ」な俺でも解けそうだと思った。
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