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犬と猫 1
水曜日。学校から帰宅後、パーカーに着替えて部屋で友だちからのメッセージに返信していると、控えめなノックの音が聞こえた。
「はーい」と返事をしながら振り向く。先生が立っていた。
「もうそんな時間なんだね」
立ち上がって出迎えると、先生が俺の手元を指さした。
「それ、ラブラドールレトリバーですか?」
先生は、俺のスマートフォンカバーに付いている、小さな洋銀のストラップのことを言っているようだった。親指の第一関節ほどの大きさの銀色の犬が揺れている。
一年以上付けっぱなしだから、ストラップの存在を意識したのは久しぶりだった。
「多分そうだと思う」
「誰かからの贈り物ですか?」
「母さんだよ。誕生日でも何でもなかったのに、突然『悠里に似てる』って買ってきた」
「確かに、君は犬っぽいですね」
先生はストラップと俺を交互に見比べている。
「へへ。俺、犬好きだから嬉しいな」
にいっと笑うと、先生の目尻が下がった。
「やっぱり君は分かりやすいです。ちぎれんばかりに振られているしっぽが見えるようですよ」
「え? しっぽ?」
俺が後ろを向くと、先生が吹き出した。
「比喩に決まってるでしょう。君は馬鹿なんですか?」
「あー! だから、『バカって言われると、ほんとにバカになる』って言ったじゃん! 俺がバカになったら先生のせいだからな?」
「……誰かに、そう言われたんですか?」
急に先生の声が低くなり、驚く。
「えっ?」
「この前も言ってましたよね? 『馬鹿って言われると、本当に馬鹿になる』。珍しいと思ったんです。『馬鹿って言ってくる人の方が馬鹿なんだ』とは聞いたことがありますが、その逆はあまり聞いたことがなくて。誰かの言葉ですか?」
先生が俺の目をじっと見ていた。俺は意識して口角を引き上げた。
「死んだ父さんだよ」
「……そうですか。すみません」
「なんで謝るの?」
「気分を害してしまったかなと思いまして」
失敗した。自分の中では吹っ切れていることなのに、話題が話題だけに、やはり気を遣われてしまった。慎重に、明るめの声で喋り出す。
「父さんのことなら十年も前だし、全然へーきだよ。それとも『バカ』のこと? こっちも大丈夫。俺、言われ慣れてるし。自分でもバカだなーって思うし」
へへっ、と頭をかいて笑って見せたが、先生の顔は暗い。
「どうしたの?」
「僕の『馬鹿』には敏感なのに、自分には『馬鹿』って言い聞かせてしまうのですね」
先生は俯いた。顔は見えなかったけれど、なんだか声が震えているような気がした。
「先生?」
顔をのぞきこもうとしたが、先生は後ろを向いてしまった。背中越しに、俺に話しかけてくる。
「それに、田丸さんには『馬鹿って言うな』と抗議しないのですね」
先生は気づいていたのだ。最初の日、「うちの息子、馬鹿だから大変だと思いますけど、よろしくお願いしますね」という母さんの発言に俯いてしまった俺の姿に。
――あの時の視線は、「なんで言い返さないの?」っていう意味だったのか。
「君はどれだけ、『馬鹿』という言葉を浴びせられてきたのですか?」
どうしてだろう。先生はどうして、そんなに悲しそうな声を出すんだろう。先生が言われているわけではないのに、どうしてそんなに傷ついたような話し方をするんだろう。「バカ」は言われ慣れていて、俺自身はちっとも傷ついていないのに。
――なんて。嘘だ。
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