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犬と猫 2
両目から涙がこぼれ落ちた。幸いなことに、先生は俺に背中を向けており、俺が泣いていることに気づいていない。鼻水をすすらなければ、多分バレないはずだ。腕を目に当てて、パーカーに全部吸い取ってもらうことにした。
ふっと空気が動いた気配がした。
「泣いてるんですか?」
先生の声が真正面から聞こえた。頭の上に何かが乗せられる。ぽんぽん、と二回叩かれて、離れた。先生が俺の頭に触れたのだと思ったから、その場にしゃがみ込む。両膝の間に頭をうずめる。どうしても、泣いているところは見られたくなかった。先生の嘆息が聞こえた。
「こんなに我慢して。君は馬鹿ですね」
先生の「馬鹿」はなぜか嫌じゃない。誰よりも一番優しくて、慈愛に満ちているような気がする。おかしいよね。まだ会ってから一週間しか経ってないのに。
俺は何も言葉を返せない。今喋ったら、先生に「俺は号泣しています」とアピールすることになってしまう。
「大丈夫ですよ。『馬鹿って言われると、本当に馬鹿になる』が嘘であることを、僕が証明してみせます。君が誰に『馬鹿』と言われようと、君の価値は下がったりしない。君が自分自身を信じられないのなら、君の分まで僕が信じます」
何かがつま先に触れた。少しだけ顔を浮かせて足元を見ると、ボックスティッシュとごみ箱が置かれていた。
「すみませんが、お手洗いをお借りします。家でコーヒーを飲みすぎたようです」
先生はそう言って、小さく笑い声を漏らした。フローリングがきしむ音が聞こえ、やがて、カチャと静かに扉が閉まる音がした。
俺は五秒ゆっくり数えてから顔を上げた。先生は部屋にいなかった。ティッシュで顔をぬぐう。すぐにぐちゃぐちゃになってしまうので、新しい紙を取った。鼻をかむと、耳にまで空気が抜けていった。
ごみ箱に使い終わったティッシュを入れていく。心に溜まっていた何かを体現した姿のように感じる。ティッシュでいっぱいになったごみ箱を見て、不思議と心がないでいくような気がした。
――先生が戻ってくる前に洗面所に行こう。
立ち上がって、扉を開けた。部屋の外は、いつもよりもなぜだかまぶしく見えた。
*
顔を洗って部屋に戻ると、先生が椅子から立ち上がった。
「これ」
手に持った冊子を掲げて俺に見せてくる。この前先生が置いていった、中一の数学と英語の問題集だ。
「全部やったんですね。すごいです」
洗面所の鏡で確認した時には俺の目も鼻も真っ赤で、泣いたことは誰の目から見ても明らかだった。それなのに、先生はそこに触れずにいてくれる。
「丸付け、しておきました」
差し出された問題集を受け取り、パラパラとめくれば、赤ペンの花丸がたくさん咲き乱れていた。後半のページに差し掛かった時に気がついた。一ページごとに、着実に花丸が上達している。バランスの取れた、きれいな花丸になっていく。
――こんな整った花丸を描けるようになるくらい、たくさん描いてくれたってことか。
笑い声とため息の中間の音が、口から漏れた。
「良かったですね」
しみじみと噛みしめるような口調だった。先生は何が「良かった」のかは言わなかった。「笑えるようになって」なのか、「中一の勉強は問題がないことが分かって」なのか分からないけれど、俺は先生が笑ってくれて良かったと思った。
「今日は復習プリントを作ってきましたので、残りの時間やってみましょう」
先生が鞄からホチキス留めされた束を机の上に置いた。勉強机の前の椅子に座り、その束を手に取ってめくった。数学と英語の問題が、それぞれ十枚ずつ綴じられていた。
「君が定期テストで間違えていた部分の類似問題です。今回は高校一年生の復習にしました。この前は、『見なくても解けることが分かるくらい』簡単な問題を持ってきて、君を怒らせてしまったようですから」
先生が冗談めかして笑った。恥ずかしく思ったが、事実だから言い返せない。黙って先生が作ってくれたプリントを眺める。
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