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それぞれの回顧 前編:田丸悠里 3
『田丸に任せれば全部うまくいくもんなあ。頼りにしてるぞ』
担任の声が脳内で再生された。
――そうだ。俺さえ我慢すれば。うまくいく。うまくやらないと。
手に力を込めて、兼山さんを見据えた。
「その目が気に入らないんだよ」
兼山さんの表情が変わった。俺の髪の毛をつかんで、引っ張ってくる。
「痛っ」
「あんたさ、あたしのことも見下してるでしょ。その目を見れば分かる」
ゆさゆさと頭を前後に振り回された。混乱と揺れで気持ち悪くなる。
「あたしはずっと、あんたが気に入らなかった! 何も知らないくせに『全部分かってるよ』みたいな顔しやがって! 人のこと見下して楽しいか? あんたの半端な『お情け』で、あたしたちは傷ついてんだよ。勝手に人を憐 んで、中途半端に手を差し伸べて、点数稼ぎして。いい人ぶってんじゃねぇぞ、この偽善者が」
投げ捨てるように俺の髪の毛から手を離すと、兼山さんが凄みをきかせた声で言った。
「調子乗ってると、みんなにお前の本性ばらす。クラス総出でいじめるからな。チビガキの比じゃねぇぞ。覚悟しとけ」
兼山さんが大きな足音を立てて教室から出て行った。高垣くんもそれに続こうとするので、大声で叫んだ。
「お二人を傷つけてしまって、申し訳ありませんでした」
頭を下げられるだけ下げた。二人の足音は乱れない。一度も止まることなく、一定のリズムを刻んで、遠ざかっていった。
ずっと、嫌だった。優越感。見下してる。偽善者。
涙は出なかった。代わりに笑い声が漏れた。誰もいない教室に響く俺の声は滑稽で、ますます笑えた。
*
それから俺は変わった。うかがって、媚びて、差し出して。自分がバカであることをやたら強調して、俺は誰よりも「一番下」であろうとした。下からなら、誰のことも「見下す」恐れはない。
佐々木は複雑そうな顔をしていたが、他の人からは「何でもやってくれる、気がきく学級委員長」として好評だった。それまでは遠巻きに見ていた人たちも、「悠里は馬鹿だなあ」とかわいがってくれるようになった。高垣くんと兼山さんは、俺に話しかけてこなかったし、俺から話しかけることもなかった。兼山さんが高垣くんに絡むことはなくなった。高垣くんは笑顔を見せることが増えた。
こうやってクラスは平和を取り戻した。俺が全部背負って、バカなふりしてヘラヘラ笑っていれば、少なくとも表面上は波風が立つことはない。
担任も「やっぱり田丸は頼りになるな。田丸のおかげでいろいろと助かったよ。お疲れ様」と、学期末に飴をもう一個くれた。これでいいんだ、こういう生き方が正しいんだ。そう思うようになっていた。そうやって生きてきた。
でも、角巻先生の前では無理だった。先生の顔を見た瞬間、調子が狂って、下手 に出ることを忘れた。直感的に、この人の前では嘘をつくことはできないって思ったのかもしれない。――それとも、好きな人の前では嘘をつきたくない、の方だろうか。
とにかく、先生と出会って、自分が自分じゃないみたいになって、気づけば取り繕うのを忘れて、素直に自分を表現してしまっていた。先生といるのは楽だった。どんなに突拍子もないことを言っても、からかっても、わがままを言っても、きちんと受け止めてもらえるから。甘えてしまっていた。油断していた。だからこそ、俺の「偽善者」の部分が表出してしまったのだろう。今度ちゃんと謝ろう。
そこまで考えて、先生が次の授業に来てくれる保証がないことに気がつく。給料は二万円全額支払い済みで、正式な契約書があるわけでもない。嫌気がさしてバックれたところで、先生が罪に問われることはない。俺は先生の連絡先も住所も知らないから、先生が来てくれない限りは何を伝えることもできない。先生の叔母さんと俺の母さんの友情は壊れるかもしれないが、先生自身のデメリットは皆無に等しい。
俺の部屋を出る前、先生は「さようなら」と言った。もう二度と俺に会う気がないのかもしれないと思う。そうなってもしかたない。そのくらいのことをしてしまった。
――この胸の痛みは、俺が今まで傷つけてきた人たちのものかもしれない。
なんて、かっこいいモノローグが浮かんできて、これこそが傲慢だと気づいた。人の痛みなんて分かるわけがない。分かるなんて思っちゃいけない。俺が自分の過失で傷ついただけなのに、勝手に「人の痛み」にすり替えて、人を傷つけてきた罪悪感を消そうとしている。自分勝手すぎる。だから、「偽善者」で「お子ちゃまで、世間知らずで、鈍感」だって言われるんだ。
今俺ができることは、先生が来てくれることを信じて待つことだけだ。たとえ許してもらえないとしても、洗いざらい話して、誠心誠意謝ろうと思った。俺の本性を知った先生が俺から離れていっても、先生を恨む資格はない。先生を傷つけてしまった責任はしっかりと引き受けよう。
覚悟はできていた。
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