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それぞれの回顧 後編:角巻健人 2
十二時ちょうどにチャイムが鳴らされて、玄関扉を開けると、先生が立っていた。初めて会った時と同じように、ひらひらと雪が舞っている。改めて「きれいなひと」だと思う。佇んでいるだけで絵になる。
俺が口を開く前に、先生が勢いよく頭を下げた。
「昨日は申し訳ありませんでした!」
「……え?」
その反応は、予想していたどの反応とも違っていて、俺は面食らった。
「大人げなく、八つ当たりをしてしまいました。申し訳ありません」
俺が謝るつもりだったのに、先を越されてしまって戸惑う。
「なんで先生が謝るんですか? 八つ当たり? ……違います。俺が悪かったんです。俺の態度が先生を怒らせたんだ。申し訳ありませんでしたっ!」
深くこうべを垂れた。タメ口のせいで先生を見下しているように感じさせていたのかもしれないと思って、丁寧語を使った。
「いいえ。悪いのは僕です。一方的に自分の感情をぶつけて、君を傷つけてしまいました」
「そんなことないです。俺は、先生のおっしゃる通り、先生を見下していました。偽善者なんです」
「……その喋り方、どうしましたか?」
先生が、傷ついているような声を出した。顔を上げた。先生の眼鏡に当たった雪が溶けて、水滴になっている。その奥の目は、ぼやけて見えない。
「先生が前、誰にでもタメ口をきくのは印象が良くないって言ったから。それで、やめようと思ったんです」
「そう、ですね。確かに言いました……」
先生がため息をついて笑った。先生の後ろから冷たい風が吹き込んできて、ハッとした。俺はなんて気がきかないんだろう。
「とりあえず、上がってください」
先生が頷いて中に入り、玄関扉を閉めた。外の景色が見えなくなっただけなのに、閉鎖空間に閉じ込められたような錯覚に陥る。先生は眼鏡を外して、コートのポケットから出したティッシュでレンズを拭ってから、かけなおした。
「謝罪に来たのにこんなことを言うのはおかしいかもしれませんが――」
先生が泣きそうな顔で微笑んだ。
「調子が狂うので、敬語はやめてください。君にタメ口を使われるのは、その……嫌、ではないので」
目を伏せて自分の足元を見つめる先生の鼻先が、少し赤くなっているような気がした。
「分かった」
調子が狂っているのは俺だって同じだ。今俺の前にいるのは、いつもの先生ではなくて、俺が想定していた先生でもない。俺の想像の枠を飛び出した、一度も見たことがない先生だ。
「先生、怒ってないの?」
「怒る? どうしてですか?」
先生は心底不思議そうに俺を見返した。
「先生に、人からもらったチョコをあげようとしたから」
「それは君の気遣いでしょう? 君の優しさを『情け』と判断してしまった僕の方に原因があります。むしろ、暴言を吐いたのは僕ですから、怒る権利は君の方にあると思います」
「怒らないよ。怒るわけないじゃん」
調子が狂う。ずっと謝りたいと思っていたのに、先生は俺を責めてくれない。
「俺は多分、最初からずっと先生のことを見下してたんだよ」
「そうですか」
先生は悲しむでもなく、叱責するでもなく、それだけ言うと黙った。
どちらかをしてくれれば、俺の気が紛れるのに。何か喋ってくれたら、居心地が悪い沈黙が生まれることもないのに。沈黙を破るためには俺が喋り始めるしかないじゃないか。
「見下されてたんだよ? 怒らないの?」
「怒ってほしいんですか?」
「それは……怒られない方がいいに決まってるけど……」
先生の静かな笑い声で、ふっと空気がゆるんだ。
「お腹、すいていませんか?」
先生が俺の顔をじっと見た。眼鏡の奥の瞳が、揺れているような気がする。
「このまま謝り合っていても不毛ですから、一旦やめにして、食事に行きませんか? もちろん、君さえ良ければですが」
先生の声は掠れていて、震える瞳は俺の気持ちを推し量ろうとしているのかもしれないと思った。
余計な言葉を挟まずに答える。
「行く。コート取ってくる」
部屋に戻るために先生に背中を向けたとき、先生の声が聞こえた気がした。
「良かったです。君に嫌われていなくて」
安心しきったような、ため息のような声だった。俺の妄想が産んだ、都合のいい幻聴かもしれない。それでも、先生が発したものだと信じたいと強く思った。
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