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自分を変える一歩目 4
「失礼します」
初めて足を踏み入れた進路指導室の壁は真っ赤だった。正確に言えば、壁際にある本棚に、赤い本がびっしり詰まっていた。背表紙にはデカデカと大学名が書いてある。
「おう」
近藤先生が中で待っていた。俺がドアを閉めるのを見て、本棚から一冊抜き取り、こちらに差し出してきた。
「A大の過去問。見たことあるか?」
首を横に振って、真っ赤な分厚い本を受け取る。パラパラとめくって見ていると、先生が言った。
「どう思う?」
具体的に何を聞きたいのか分からないので、曖昧に答えるしかない。
「どうって……難しそうですね」
「一年後に、これを解いている自分を想像できるか?」
近藤先生に目をのぞきこまれた。俺は、まったく動くことができなくなった。思考も停止した。先生は深く息を吐き出すと、俺から視線を外した。
「A大を目指すんだろ? 『はい』と即答できなきゃだめだ。他の受験生に気持ちで負ける」
先生は俺の手から過去問題集を回収して、本棚に戻した。俺に背を向けたまま、言う。
「正直、今のままだとかなり厳しいと思う」
「でも行きたいんです」
出た声はか細くて、「気持ちで負けている」と思った。
「相当頑張らないとだめだぞ。覚悟はあるのか?」
近藤先生が振り返った。俺は大きく息を吸い込んだ。
「あります!」
「そうか、分かった。とりあえず六月の模試まで様子を見よう」
先生があっさりと受け入れてくれたので、少し気が抜けてしまう。ほっと一息ついていると、先生が再び口を開いた。
「でも急にどうしたんだ? 今までは『将来? よく分かりません。勉強もしたくありません』みたいな顔してたのに。最近、課題もちゃんとやってくるし、授業も真面目に受けるようになったじゃないか」
「家庭教師がついたので……」
予想だにしていなかった質問に、もごもごと答えると、先生は「ははーん、なるほど」と、俺の顔をジロジロ眺めてきた。目を細めて、唇の左端を引き上げた。
「そいつに惚れたろ?」
「そんなんじゃないです!」
「即座に否定するのが逆に怪しい」
先生はニヤニヤしながら、俺の方を見ている。完全に面白がられている!
「俺の見立てでは、その家庭教師がA大出身とみた。どうだ?」
ついには、俺に人差し指を向けて、自信満々な顔で言い放った。
――勘が鋭い! 怖い! こういう変に鋭いところは嫌いだ!
「ちっ、違います!」
「当たりだな。嘘ついてもバレバレだ。田丸は分かりやすいからな」
君は分かりやすいですから。健人先生の言葉を思い出して、恥ずかしくなる。俺は隠し事ができないらしい。
「近藤先生までそんなこと言う」
「先生まで?」
先生が右眉をくいっと上げた。
「いえ、何でもありません!」
大声でごまかすと、近藤先生が近寄ってきた。嫌な予感しかしない。先生は口元に手を添え、メガホンのような形を作った。
「で、そいつかわいいのか?」
ひそやかな声で言う。アルバムをめくるように、様々な健人先生の笑顔が思い浮かんだ。身体中の熱が顔に集まってきた。
「かっ、かわいいというか――」
近藤先生の視線から逃れるように、俺は俯いた。
「美しい、です」
「はっはっは、ベタ惚れじゃないか!」
「だから、そんなんじゃないって言ってるじゃないですか!」
顔を上げれば、真面目な顔の先生と目が合った。驚きでびくりと体が震える。
「最近確かに、課題の正答率は上がってきているが、今のペースじゃ、絶対に間に合わない。この一年、本気でやれよ」
「は、はい! 頑張ります」
「応援してる。受験も恋もな」
先生は、返答を待たずして進路指導室から出ていった。
「言い逃げは、やめてくださいよ」
俺はその場にしゃがみ込んだ。そんなに分かりやすいのだろうか。それとも、近藤先生の勘が冴え渡っていただけだろうか。健人先生にも俺の気持ちがバレていたら、どうしたらいいのだろうか。いろんな思いが浮かんでは消えて、俺はしばらく進路指導室から出られなかった。
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