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自分を変える一歩目 6
二月二十六日水曜日。十九時三十五分。健人先生が部屋を出たあとで、プリントや筆記用具を片付けて、部屋の扉を開けた。ご飯を食べるため、リビングに行こうと思ったのだ。いつもは部屋でゆっくりしてからご飯に向かうのだが、今日はとにかくお腹が減っていた。
どこからか話し声が聞こえてきて、俺はとっさに足音を忍ばせた。耳をそば立てると、母さんと先生の声のようだった。
帰ったとばかり思っていた先生が、まだ家にいる。不思議に思った俺は、静かにリビングへと近づいた。
話し声が徐々にはっきり聞こえてくる。
「――らしいのよ。健人くんはどう思う?」
「その話は本人から聞きました。考えてみたのですが、私の力ではこれ以上無理だという結論にいたりました。本気で目指すなら、もっとちゃんとした指導を受けた方がいいと思います」
本人というのは俺のことだろうか。なんだか良くない方向に会話が進んでいる気がする。
「つまり?」
母さんが先生の話の続きを促した。
「プロの家庭教師や、塾に頼むんです。私は素人ですから、効率的な復習方法や受験テクニックを教えることはできません」
「実はね、私も考えてたのよ。悠里が勉強するようになったのは健人くんのおかげだと思ってるし、健人くんには本当に感謝してるの。だけど、A大をねらうならやっぱり――」
「そうですね。プロに頼んだ方がいいと思います。お金はかかりますけど」
「お金はなんとかする。せっかく悠里に目標ができたんだもの。残業を増やしたり節約したりして、捻出するわ。少しだけど、夫が悠里のために遺してくれた貯金もあるし」
「いやだ」
思わず漏れた声が聞こえてしまったのか、二人の会話がぴたりと止まる。
「悠里、いるの?」
戸惑ったような母さんの声がして、俺は二人の前に姿を現した。先生と母さんは、テーブルの前で向き合うように立っていた。二人が気まずそうな顔で俺を見た。
「先生。なんで『私の力では無理』なんて言うの? 俺は、先生のおかげで成績が上がったんだよ! 先生で大丈夫だよ。先生の指導で大学行くよ!」
リビングの入り口で、両手を太ももの横で握りしめ、先生をにらみつけた。先生は、ふぅと音を立てながら息を吐いて、俺を真顔で見返してきた。唇を動かして、俺のために言葉を紡ごうとしてくれる。
「君は受験のことを何も分かってません。A大学を目指すんでしょう? それなら、僕は適任ではありません。学力が上がったとはいえ、担任の先生がおっしゃる通り、今のままでは合格が難しいと思います。僕ができるのはここまでです。僕は受験のプロでも、指導のプロでもありません。ただのその辺にいる大学生ですので、そんなに期待されても困ります」
取りつく島もないくらい、理性的な答えだった。
「先生は俺のことを見捨てるのかよ!」
こんな感情的な言葉しか出てこない俺は、やっぱり「お子ちゃま」なのだろうと思う。
「いやだ! 俺は、先生じゃなきゃ、いやだ!」
「悠里さん」
優しくて柔らかい声で呼びかけられる。先生が穏やかな笑みを浮かべながら、俺を見ていた。
――こんな時だけ、名前で呼ばないでよ。
先生の声で名前を呼ばれるのは新鮮で、だからこそ距離を感じて、とても寂しかった。
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