38 / 135
知らないままでいたかった 1
三月に入って二回目の土曜日、母さんが一万円をくれた。
「申し訳ないんだけど、今月なかなか忙しくて買いに行けないから、私の代わりに、健人くんにバレンタインのお返しを買って渡しておいてくれない? 悠里もこれで好きなもの買っていいから」
先生の名前が出て、胸がきゅんと切なくなった。先生を困らせたくないのに、何をあげたら喜んでくれるだろうと考えはじめた自分に気づいて、呆れてしまう。
「分かった。ついでに、学校のみんなへのお返しも買おうかな。ショッピングセンターに行ってくる」
「今から?」
「うん」
「帰りは迎えに行けないけど、送ろうか?」
「いい。歩いて行く。天気もいいし」
身支度を整えるために部屋に戻ろうとすると、母さんの声が飛んできた。
「悠里。今月中になんとかしなさいよ」
何をとは言われないが、志望校と健人先生のことだろう。
「分かってるよ」
後ろを振り返らずに答える。母さんのため息が聞こえた気がして、俺は髪の毛に手ぐしを入れるふりをして耳をふさいだ。
*
ショッピングセンターに着き、催事コーナーに直行した。ここならホワイトデー用のお菓子がたくさんある。手元に残るものよりも、食べ物の方が無難だろうと思ったのだ。商品が並んだ棚の前で立ち止まった。
――お返し、か。先生は何が好きなんだろう。
バレンタインデーのことを思い返すと、心臓が痛くなる。先生が投げてよこした小さなチョコレートの味が、口の中によみがえってきた。
チョコレートを持ち歩いているくらいだから、先生はきっと甘いものが好きなのだろうと思う。
箱に入ったクッキーの詰め合わせセットを手に取った。あのバラのチョコレートは高そうだったから、一番豪華なのを選んだ。クッキーだけでなく、マドレーヌやチョコレートも入っているようだ。大きさはA4サイズよりも一回り大きいくらい。先生がいつも持ち歩いている鞄には、ぎりぎり入るだろう。
そういえば、バレンタインの翌日に、ファミレスでご飯を奢ってもらったんだった。あれは一応、バレンタインプレゼントということになるのだろうか。
――俺がもらったぶんのお返しも、した方がいいのかな?
後ろの棚にあった、宝石を模したきらきら輝くチョコレートに手を伸ばしかけて、やめた。
ファミレスでごちそうしてくれたのは、単に先生が年上だからで、そこに特別な意味がないとしたら、お徳用チョコ一個しかもらっていない俺がこんなものをあげたらドン引きされるよな、と思ったから。
代わりに、かおり姉ちゃんの分として、片手で持てる大きさのクッキーの箱をつかんだ。学校のみんなには、もっと安くていっぱい入ってるやつでいいだろう。とりあえず二箱あれば間に合いそうだ。見繕ったクッキー三種、計四箱を両腕に抱えて、レジに持って行った。
ともだちにシェアしよう!