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苦しくて、切なくて、痛い。 7

 部屋に戻ってきた先生は、俺の隣の椅子に深く腰掛けると、天井を見上げた。両腕は重力に従うように、だらりと下に垂れている。まるで生気がない。 「ぼーっとしてるけど大丈夫?」 「はあ、まあ……」  明らかに心ここにあらずな返事だ。様子がおかしい。 「電話、何だったの?」 「君には関係ないことです」  冷たく固い声が返ってきて、少し落ち込む。先生にそんな声を向けられるのは、バレンタインの日以来だったから。チョコレートの味、そしてハンバーグの味を思い出した。あの時先生は「八つ当たり」と言っていた。今も、あの日と同じように、何かに傷ついていて、八つ当たりをしているのかもしれない。  それなら、俺が落ち込んでいる場合ではない。先生を放っておくわけにはいかない。座ったまま椅子をひいて、体を先生の方に向けた。 「関係なくても教えてよ。知りたい」 「君に言ってもしかたないことですから」  先生は天井を見つめたままだ。 「でも、すごく苦しそう。俺、話を聞くくらいしかできないけど、頼ってほしいよ」  先生の手を取り、両手でぎゅっと握りしめると、先生がようやく俺の方を向いた。 「どうしてそんなに僕に構うんですか」  光の宿らない目で、ため息みたいな声を出す。手を振り払われる。 「先生が心配なんだよ」  先生が目を伏せる。まつげが震えていた。 「君に優しくしてもらう価値なんて、僕には――」 「そんな言葉、聞きたくない! 俺が先生のことを考えてる今には価値がないわけ?」  大きな声を出してしまった。先生に自分自身を――俺がこんなに恋焦がれている存在を、否定してほしくなくて。  先生は驚いたように顔を上げて、俺と目が合うと再び俯いて、ぽつりと言った。 「みやこが死にました。ここ数日、ずっと具合が悪そうでしたから、覚悟はしていました」  みやこ。前に聞いた。先生の実家で飼っている、十二歳のメスのゴールデンレトリバーの名前だ。  まさか死の話とは思わなくて、適切な言葉がとっさに用意できない。 「そうなんだ……。じゃあすぐ帰らないと」  なんとかそれだけを絞りだした。 「帰りません。帰りたくない」  先生が間髪入れずに答える。だだをこねる子供のようだった。 「どうして?」 「帰ったら、現実と向き合わなければいけないじゃないですか。でも、ここにずっといたら、事実確認ができないから、『もしかしてみやこはまだ生きてるかも』って思えるじゃないですか」  先生は額に手を当てて、ふっと笑った。 「こんなの、子供じみてるって分かってます。十二年も生きてくれたんだから、充分だろうとも思います。でも、なかなか切り替えられなくて。すみません。もう少しだけ気持ちを落ち着けてから帰りたいです」  先生の肩が上下する。表情は見えない。 「それなら、俺のこと、みやこだと思っていいよ」  バカみたいなセリフが、口から勝手にこぼれ落ちた。

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