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苦しくて、切なくて、痛い。 8
「は? 何を言ってるんです?」
先生が、がばっと顔を上げた。眉をひそめ、混乱した表情。先生の声にわずかに力が戻ってきたので、少し安心する。
「だって、似てるんでしょ? 俺、犬っぽいんでしょ?」
相当おかしなことを言っている自覚はある。でも、その手で触れてほしくて、その悲しみに触れたくて、俺は必死だった。
「みやこの代わりに、抱いていいよ」
代わりになれないことなんて分かりきっているけれど、俺を抱きしめて他人の熱を感じれば、先生の気も紛れるかと思って、提案してみる。
「『失恋した片思い相手を慰めるために体を捧げる』みたいなことを言っている自覚はありますか?」
よく分からなくて首を傾げると、まずいとでも言うように先生が目をそらした。
お互いの呼吸音だけが聞こえる数秒間。先生は俺を受け入れてくれるだろうか。
先生が深く息を吸い込む音がした。
「……三回まわって、ワン」
先生が眼鏡のフレームに手を添えながら、ためらいがちに言った。俺は両手を軽く握り、手首を曲げて、犬の手みたいな形を作ってから立ち上がった。部屋の中心部でターンを三回決め、「わん!」と鳴き真似をしてみせる。
「おすわり」
ぺたん、と床に正座した。本物の犬みたいに座るのは、さすがに恥ずかしくてできない。
「本当にやるなんて、馬鹿なんですか」
先生がため息をついた。俺の目の前にしゃがみ込み、無言で頭をわしゃわしゃとなでてきた。
「わん」
先生の顔を見上げて、もう一度鳴いてみる。すると、先生は笑顔と泣き顔をぐちゃぐちゃに混ぜたみたいな変な顔をした。
「君って人は、ほんとにっ……!」
先生が床に正座した。膝と膝がぶつかる。視線が真っ直ぐ交わる。後頭部に右手を添えられた。左手は俺の背中に。力が加わり、前に倒れる。頭を先生の胸に押し当てるような形で引き寄せられる。
「わっ!」
思わず叫んでしまった。こんなのは初めてで、どうしたらいいか分からない。変な体勢。バランスが崩れる。先生の膝の上に倒れ込みそうになって、俺は両腕を床につけて突っ張った。
先生は何も言わない。先生の胸の真ん中に耳を当てると、心臓が血液を送る音が聞こえてくる。
――すごくドキドキしてる。俺と同じように、俺のこと、好きだって思ってくれてるのかな、なんて。そんなわけないか。
「大きすぎる、ふかふかじゃない、こんなのみやこじゃない」
先生の文句が上から降ってくる。苦笑して答える。
「俺、人間だから……」
一度体を離される。俺の膝の間に、先生が自分の膝を割り入れた。先生と見つめ合う。まるでキスでもするかのような距離に、心が震える。
「だって、君が言ったんじゃないですか! 自分をみやこだと思え、って、君が――!」
先生の言葉が途切れて、抱き寄せられた。今度は、先生の左肩に俺の顎が乗った。やがて押し殺した泣き声と鼻をすする音が聞こえてきた。
背中には先生の左手が当たっている。右手で、頭の形をなぞるように、頭頂部から首筋までをなでられる。何度も何度も。くすぐったい。でも、それだけじゃないような、ざわざわした感覚が襲ってくる。
――先生の手、あったかくて、気持ちいい。今だけ、先生の腕の中にいる間だけ、先生も俺のことを好きでいてくれているって思おう。思うだけなら、バチは当たらないよね?
目を閉じて、先生に身を委ねた。ずっとこのままでいられたら、って不謹慎だけど喜んでしまう。人の不幸を嬉しく思うなんて、そんな身勝手な自分がとても嫌になる。
小刻みに震えている先生の背中に、両腕をまわす。先生は一瞬体をこわばらせたが、俺の手を拒む気配はなかった。背中に添えた手に力を込めて、先生をもっと近くに引き寄せる。
――俺がスポンジになって、先生の悲しみを全部、吸い取ってあげられたらいいのにな。
先生の静かな泣き声を聞いて、そんなことを思った。先生の震えが止まるまで、俺は背中をさすり続けた。
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