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苦しくて、切なくて、痛い。 9

 十分くらい経った頃に、先生の体は規則正しく伸縮するようになり、両手が俺から離れていった。名残惜しかったが、俺も腕の力をゆるめた。  先生が立ち上がり、ティッシュで顔をぬぐって、鼻をかみ始めた。 「先生、顔ぐちゃぐちゃ」  部屋の隅にあったごみ箱を引き寄せて、先生に差し出した。 「『ぐちゃぐちゃ』とは、ひどい言われようです」  顔をしかめ、鼻声で返される。ごみ箱には大量のティッシュが投げ込まれていく。 「顔の良さだけはみんなから褒められるのに」  真面目なトーンで言うから、冗談なのか本気なのか分からない。 「泣いてすっきりした?」 「泣いてません」  堂々と嘘をつかれた。 「そんなに目を赤くしてるのに?」 「君は僕の涙を見ましたか? 見えなかったはずですよね?」  腫れぼったい目で、鼻水をすすっているくせに、ごまかそうとしてくる。 「うん、まあ。直接見たわけじゃないけど――」  あの声は絶対に泣いてたよね、と続ける前に、先生がせき込むように言う。 「じゃあ、泣いてる確証はありませんよね?」  なぜか強気な先生を見て、少しは悲しみを吸い取ることができたようだと嬉しくなる。 「なんで笑ってるんですか……」  とても不服そうに先生が眉根を寄せた。 「先生の心臓、ドキドキしてたね」  先生がうろたえたように半歩下がった。 「先生の手もあったかくて気持ち良かったよ」 「あ、あれはとっさの行動で、別に変な意味では……!」  口元に手の甲を当てて、首まで赤く染めている。 「分かってるよ。泣いてるとこ、見られたくなかったんでしょ?」  自分で言って、切なくなった。微笑んでみせたが、少し遅かったようだ。 「……どうして君が、そんなにつらそうな顔をしているんですか?」  先生に気づかれてしまった。 「先生は顔を見ただけで俺の気持ちが分かっちゃうんだ。すごいな」 「君が分かりやすすぎるだけですよ」 「犬だから? みやこだから?」  俺が口角を上げると、先生の目が泳ぐ、泳ぐ。 「うっ。さっきのは今すぐ忘れてください……」  ますます赤くなり、ついにはくるりと後ろを向いてしまった。  ――耳まで赤い。先生、かわいい。  初めて沸き起こった感情に戸惑う。かわいい? 胸がきゅんとした。もう一度先生を抱きしめたくなったが、先生は泣きやんでしまった。言い訳がなくなってしまったから触れない。触ってもらえない。 「忘れないよ、ぜったいに」  先生の背中を見ながら囁いた。先生は微動だにしない。俺の声が途中で床に落ちてしまったのか、それともちゃんと先生まで届いたのか、俺には分からなかった。

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