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苦しくて、切なくて、痛い。 10

 時は無情にも過ぎ去り、あっという間に三月二十八日、つまり健人先生が家に来てくれる最後の日になった。  ちなみに、この前先生が泣いた日は実質三十分しか授業ができなかったという理由で、金曜日に三十分長くやってくれた。とても律儀だ。  最後だからといって特別なことは何もなく、いつも通りに復習プリントをやり、先生が丸付けと解説をしてくれて、一時間が終わった。いつも以上にあっという間だった。  先生が鞄から何かを取り出しはじめた。机の上に並べていく。 「君へのプレゼントです」  プリントの束だった。「高校二年生の復習〈数学〉」「高校二年生の復習〈英語〉」という表紙がつけられており、厚みはそれぞれ一センチほどある。  数学から手に取った。めくって見ると、いつものプリントだ。ということはつまり、全部先生の手作りだということだろう。  驚いて先生に顔を向けると、「ここまで進まなくてごめんなさい」と謝られた。 「これ、全部俺のために?」 「そうです。よかったら使ってください」  先生が微笑んだ。胸がじんと熱くなった。 「ありがとう。大事に使う」  プリントの束を二つ、両腕でぎゅっと抱え込むように持つと、先生が嬉しそうに目を細めた。 「更にこちらは、僕が受験の時に使っていた、A大の過去問です。七年分入っています。僕と同じく、前期日程で教育学部を目指すのであれば、使えると思います」  先生が赤い表紙の問題集を手渡してきた。学校の進路指導室で見たのと同じものだ。 「あまりきれいじゃなくて申し訳ないですけど」  受け取って眺めてみる。先生が持っていた時には気づかなかったが、角が()れていたり、表紙に細かな傷が入っていたりして、使い込まれた本だということが分かった。中のページは、ところどころ角が折られていた。先生がつけた印だろうか。 「それは、僕が何度も間違えた問題です」  先生は後頭部に手をやって、自分の髪の毛を触った。 「過去問も、基本的には復習プリントと使い方は一緒です。『解き方と答えを覚えるまでやりこむ』。これで僕は受験を乗り切りました」 「分かった。俺もそうする」 「新しい先生が別のことを言ったら、僕が言ったことは忘れて、その先生の指示に従ってくださいね。僕は素人ですから」  先生が微笑んだ。卑下している様子は見られないから、本気でそう思っているのだろう。 「俺は、先生のおかげでここまで頑張れたんだよ。『勉強って何のためにしなきゃいけないんだろう』って思っていた俺が、教師を目指すようになるんだから、かなりの変化だよ。記号にしか見えなかった数学と英語も、少しずつ分かるようになってきた。だから、先生のやり方が合ってたんだと思う。これからも、このプリントと過去問で勉強続けるね。ありがとう」 「しっかり頑張ってください」  先生は照れたような笑顔で握手を求めてきた。「約束」を思い出して泣きそうになる。 「うん。頑張る」  強く握り返した。

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