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苦しくて、切なくて、痛い。 11
いつもは部屋でバイバイだけど、今日は玄関まで見送ることにした。
母さんは『もし早く帰れたら、健人くんに挨拶したい』と言っていたが、やはり年度末だから難しかったらしい。母さんから預かっていた茶封筒を、靴を履き終わった先生に差し出す。
「これは?」
右手で受け取った先生が、封筒を眺めた。表に「健人くんへ」とあるのを確認すると、ひっくり返した。裏には「田丸千佳子 より」と書いてある。母さんの名前だ。
「母さんから。お礼の手紙だって」
本当は、追加の謝礼の一万円札も入っているのだけれど、それを教えたらもらってくれない気がして、黙っていた。
「そんなわざわざお気遣いいただかなくていいのに。『ありがとうございます』と伝えておいてください」
先生は封筒を鞄の中にしまうと、姿勢を正して、両方のつま先をこちらに向けた。顔を上げ、俺を見てくる。視線が絡めとられる。
そのまま黙って見つめ合った。
一、二、三秒。先生は全然目をそらそうとしない。
――好きだ。先生が、好き。寂しい。一瞬も離れたくない。
心臓が音を立てはじめる。俺は「分かりやすい」から、全部伝わってしまうかもしれない。でも、それでもいいか。もうしばらく会わないのだから、気まずくなっても困らない。そんなことより、先生を少しでも長く眺めていたかった。
四、五、六、七秒。先生の瞳孔が開いている。真一文字に結ばれている先生の唇が、わずかに動いた。
先生は俺のことをどう思ってるんだろう。好きでもない人と、こんなに見つめ合えるものだろうか。期待、してしまっていいのだろうか。
八、九、十秒。先生がはにかんで、顔を伏せた。
「三ヶ月間、ありがとうございました」
先んじて言うので、俺も慌てて頭を下げた。
「それはこっちのセリフ。本当にお世話になりました。ありがとうございました」
顔を上げ、ぱちりと視線が合わさると、どちらからともなく笑い出した。
涙でお別れしたくないから助かった。だってこれは、今生の別れじゃない。
「では、そろそろ行きますね」
先生が右足を後ろに引いた。
――連絡先、交換して。
喉まで出かかった言葉を、唾と一緒に飲み込んだ。
先生と自由にやりとりできるようになったら、それに安心して、A大受験のモチベーションが下がってしまう気がする。間に二人の大人を挟むくらいの関係性が、俺たちにはちょうどいいのかもしれないと思ったのだ。
「気をつけて帰ってね」
手を振る。先生が頷いて、俺に背中を向けた。玄関扉を開け、外の闇に消えていく直前。
「また会いましょう。悠里」
先生の声。再会を願う言葉。名前。驚きすぎたせいで、反応が遅れる。
「絶対だよ! け、健人先生!」
閉まりかけている扉に向かって叫んだ。先生が右手を上げてピースサインを作り、人差し指と中指を交差させたのが見えた。
幸運を祈る 。
玄関扉が閉まった。
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