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受験は団体戦 3

 リビングで自己紹介と契約内容の確認を済ませたあとで、横井先生と俺の部屋に向かった。  科目は数学と英語に限らず、出来具合によって変えていくことになった。基本的には横井先生が教えてくれるが、科目によって先生が変わることもあるらしい。また、家庭教師の時間は、水曜日と金曜日の十八時半から一時間と決まった。  健人先生が来てくれていた時間と同じなのは、「この時間に机に向かって勉強するという習慣が三ヶ月でできているはずなので、それを活かしていきたい」ということだった。  健人先生との大事な思い出の時間が、得体の知れない横井先生と過ごす時間に塗り替えられていくようで嫌だったが、そんな理由を述べられるわけもなく、おとなしく受け入れるしかなかった。 「どうぞ」 「お邪魔します」 「よかったら座ってください」 「ありがとうございます!」  先月まで健人先生が使っていた椅子をすすめると、何のためらいもなく座った。いや、椅子に座る時に躊躇する人間がいたらおかしいと分かっているのだが、ぎゅっと胸が苦しくなった。  横井先生の左隣にある、少し座面が高い椅子に座ると、横井先生と頭の位置がそろった。横井先生は、俺、そして健人先生よりも身長が高いのだ。  何でも健人先生と比べてしまう自分自身に嫌気がさす。いつまで引きずるつもりなんだろう。新しい先生と関係を築かなければ。  俺は、横井先生に顔を向けた。 「先生は、俺が敬語を使うのとタメ口を使うのと、どちらがいいですか?」  手始めに、そこから確認することにした。先生が首を傾げた。 「田丸くんが話しやすい方でいいですよ」 「じゃあ、敬語にします」  仲良くなりたくないわけではないが、積極的に距離を縮めていきたくはない。その上、横井先生が敬語だから、俺がタメ口だと、健人先生と喋っている時とまるで同じになってしまう。それは避けたかった。 「了解です」  軽く言いながら、先生がビジネスリュックから四色ボールペン一本と、黒いバインダーを取り出した。間にはいろんな紙が挟まっている。 「共通の知り合いを通して、角巻くんからデータやテストの写真をもらいました。なので、田丸くんの数学と英語の学力は把握しています」  いきなり健人先生の名前が耳に入ってきて、びくっと肩が震えてしまった。横井先生は気づいていないようだ。バインダーの間の書類――おそらく健人先生がまとめたであろう、俺の苦手傾向が示された紙を眺めながら言う。 「角巻くんの手作りの復習プリントも見ましたが、あれはすごいですね。的確な分析力と丁寧な問題づくり。うちで働いてほしいくらいだ。彼は一体何者なんですか?」  先生の目が細められた。 「家庭教師の経験のない、『ただのその辺にいる大学生』だと言ってました」 「そうは思えませんでしたが。だとしたら天才か、もしくは……田丸くんのことがよっぽど好きなんでしょうね」  先生がこちらを向いて、笑顔でウインクをした。 「えっ!?」  驚きすぎて、椅子から立ち上がりそうになった。  ――健人先生が、俺のことを好き? そんな、いや、まさか。 「でなければ、たった一人のため、しかも、たった三ヶ月のためだけに、あそこまでしないと思いますよ」  横井先生の真剣な目が俺を捉えた。頭の中をのぞかれているような気分になって、ドキドキが止まらなくなった。先生が唐突に破顔した。 「なんちゃって。ウソウソ。角巻くんが天才的に優秀なだけでしょう。いくらなんでもびっくりしすぎじゃないですか?」  ざくり、と何かで刺されたような痛みが心臓に走った。なぜこんな反応になるのか、自分でもよく分かっていなかった。戸惑いながら胸をおさえる。  俺が黙っていても、横井先生は気にならないようだ。平気な顔をしてリュックに手を入れて、何かを探していた。 「手作りプリントなんて用意してたら身がもちませんから、私は会社の教材で授業を進めさせてもらいますね」  先生はリュックから冊子を取り出すと、俺の前に置いた。受験対策用の問題集だった。科目ごとに分かれていて、数学、英語、国語、生物、日本史の五冊だ。 「とりあえず、数学からやってみてください」  途中式と回答を書くための、罫線つきのルーズリーフも渡される。 「分かりました」  俺は座り直すふりをして、椅子を左側にずらし、先生と距離を取った。横井先生が視界に入ると、胸がざわざわする。目の荒いヤスリで、ゆっくりと軽くなでられているような感覚。申し訳ないと思いつつ、なるべく右側を向かないようにして問題に集中した。

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