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受験は団体戦 6
母さんが目を伏せて、箸からスプーンに持ち替えた。ご飯とルーの境目にスプーンを差し込んで、ぽつりぽつりと話し始める。
「それこそ、お父さんがいなくなってすぐの頃は、結構あったのよ。私も若かったしね。仕事の話をしたいだけなのに、やけに距離を取られたり、彼女がいるアピールをされたりしたこともある。『今は恋愛興味ないんですよねぇ』とわざわざ言ってくる人もいた。その度に、すごくモヤモヤしてたの。『私は何とも思っていないのに、なんで』『告白していないのに振られているみたいな状態が続くのは、どうして』って。今日、久しぶりにそれを思い出した」
母さんはカレーを混ぜるばかりで、一向に口に入れようとしなかった。白と茶色の境界がぼやけていく。
「なんでモヤモヤしてたのか、やっと分かった。気持ち悪かったんだ。私のことを『女』として見てくる視線が。当然自分のことを『男』として見ているだろうという思い込みが。『子持ちの女に好かれたら面倒だし、先手を打っておこう』という気持ちが透けて見えて、傷ついてたんだと思う。あの時、さっきみたいに言えたら良かったな。『私は子供が大事なので、誰とも恋愛する気なんてありません。自意識過剰かよ、ばーか』って」
ふっ、と母さんは寂しそうに笑う。
「悠里相手に何言ってるんだろうね」
母さんが、ようやくスプーンでカレーをすくって、食べはじめた。俺もサラダに乗っていたミニトマトを口に入れる。歯を立てるとぷちっと弾けて、くせのあるすっぱい液体が口内に広がった。
何も言えなかったし、言うべきではないと思った。だから、他のことを尋ねた。
「母さんは、どうして父さんと結婚したの?」
「根負けしたのよ」
母さんは、遠くを見つめるような目をして、スプーンを置いた。
「『好きだ、好きだ』って毎日まとわりつくから、それでしかたなく付き合い始めて、気づいたら結婚してた。顔は全然タイプじゃなかったけど」
「そうなの!?」
大きな声を出すと、母さんは俺を見てくすっと笑った。
「うん。だって、私、美形の眼鏡男子が好みなんだから。お父さんと正反対でしょ? 私はね、健人くんみたいな顔が好きなのよ」
また、急に先生の名前。感情が顔に出ないように体に力を入れた。俯き、カレーをかき込む。
「そうなんだ。母さん、面食いだね……」
「あの子は完璧。私の理想どんぴしゃ」
嬉しそうな母さんの声を聞いて、血は争えないなと思った。
「だから悠里も、好きな人がいるならガンガンアタックしなさいね。悠里が相手の好みのタイプじゃなかったとしても、私みたいにそれで落とせるかもしれないわよ」
びっくりして手から力が抜けてしまった。スプーンが落下する。床に当たり、何度か跳ねたようで、かちゃんからんという音がリビングに響いた。
――俺が健人先生を落とす? スプーンじゃなくて?
顔が、熱い。
「あら? その反応。誰かいるのね?」
母さんが少女のような笑みを浮かべた。
「違っ、いないし!」
床にしゃがみ込み、スプーンを拾う。立ち上がって、シンクに行こうとすると視線を感じる。そちらに顔を向けると、母さんがにんまりとしていた。
「若者よ、青春を謳歌せよ」
びしっと人差し指を立ててきた。
「だからそんなんじゃないってば!」
逃げるように小走りでシンクに向かい、勢いよく水を出した。手に当たる水が冷たくて心地いい。このまま顔の熱も引いてくれと思いながら、水の流れにスプーンを差し込むと、跳ね返った水が顔にかかった。顔も服もびしゃびしゃだ。俺は袖口で顔を拭うと、いつも以上に念入りにスプーンを洗った。
食卓に戻ると、母さんが俺に探るような目を向けてきた。
「次も横井先生でいいの?」
「母さんがつらいなら、変えてもらうよ」
そう答えると、母さんが寂しそうに笑った。
「私のことはどうでもいいのよ。悠里の方が一緒にいる時間が長いんだから」
「うーん。とりあえず様子見かな」
母さんとの会話のネタを提供してくれたしなぁという思いもあった。
「ほんと? 我慢してない?」
「うん」
「分かった。でも、高いお金を払ってるんだから、合わないならすぐに言いなさいよ?」
「うん。分かった。ありがとう」
にっこり微笑んでみせると、母さんは俺の本心を見極めようとするみたいに、こちらをしばらく見ていたが、やがて目を伏せて食事を再開した。
先ほどとは打って変わって、スプーンが皿に当たるカチャカチャという音だけが聞こえる。沈黙が続いたが、不思議と落ち着いた気分だった。
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