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重なりそうで重ならない 10
「こっちには何時までいられますか?」
学食を出たところで聞かれる。
「えっと、遅くても夕方六時発の電車には乗りたいから、あと三時間くらい?」
大学からバス移動する時間は除いて答えた。先生が腕時計を見る。
「まだ時間がありますし、今度は落ち着いた場所で話しませんか?」
ありがたい提案だった。学食は常に人の出入りがあって、ゆっくりできるような雰囲気ではなかった。プレゼントを渡せていないし、何より少しでも長く先生の近くにいたい。
「いいよ」
「バスの時間を考えなくて済むように、まず駅に移動しましょう」
先生は、俺の方に顔を向けてはいたものの、目が合わなかった。さっきの「緊張して眠れなくて」という発言から、ぎこちなさを引きずっているようだ。
「え、でも、先生この辺に住んでるんでしょ? 大学の近くでいいよ。わざわざ駅まで行かなくても……」
「行きたい店があるんです。だめですか?」
「だめじゃないけど……」
俺のために駅と大学周辺を往復させてしまうのは申し訳ないという気持ちから、言いよどんでしまう。先生が俺の目を見た。傷ついた瞳をしているのに、口元は少し微笑んでいる。
「それとも、僕と一緒に行動するのが嫌ですか?」
こんな言葉を口にする時に限って視線を絡ませてくるなんて、ずるい。でも、こんなつらいことを言わせてしまったのは俺だ。先生のことを思っての発言だったのに、裏目に出てしまった。そう考えると情けなくなる。俺は腹にぐっと力を入れて、先生を見据えた。
「嫌なわけない! 俺も先生と一緒にいたいよ。できるだけ長く、同じ時間を過ごしたい。『駅に行こう』って、俺に気を遣ってくれたんでしょ? 俺が帰ったあと、また先生はこっちに戻ってこなきゃいけないし、無駄なバス代がかかるわけじゃん? それが申し訳ないなって思っただけ」
俺の気持ちが伝わったのだろうか。先生の喉仏が動いた。再び目をそらされる。最初の言葉が告白みたいになってしまっていることに気づいて、かあっと顔が熱くなった。先生が首筋に手を当て、小さな声で言った。
「そんなこと、思わなくていいのに」
口がほとんど動いていないところを見ると、どうやら独り言のようだった。先生が息を吸う音が聞こえた。
「僕は全然負担ではありませんから、君が嫌じゃないなら、行きましょう。こっちで過ごしている間に何かがあって、駅に移動できなくなったら困りますし」
一息で言い切った。「なったら」くらいで、先生が早足で歩きはじめた。呆気にとられ、数秒固まってしまう。慌ててその背中を追いかける。先生は腕を前後に振って、すたすたと歩いていた。
――この手をつかまえたい。手をつなぎたい。
唐突に思った。無意識のうちに伸びていた右手を、左手でおさえる。付き合っているわけでもないのに、突然そんなことをしたら、距離を置かれてしまうだろう。せっかく久しぶりに会えたのだから、もう少しこの時間を楽しみたい。
俺は歩幅を大きくして先生に追いつくと、横にぴたりと並ぶようにして歩いた。こうすれば、揺れている手は視界に入らない。先生の歩くスピードが緩んだ。横目で先生の様子をうかがう。前だけを見つめて、何を考えているか分からない。唇がきゅっと引き結ばれている。
唇。キス。
思いついてしまった単語にふたをするように、俺は首をぐいっと下に向けた。短い影が二つ、同じ速度で動いていく。俺たちの足元から伸びている影は、重なりそうで重ならなかった。つかず離れずの距離を保って、バス停へと向かう。
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