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重なりそうで重ならない 11

 オープンキャンパスの影響でバスはそこそこ混んでいて、座席は全て埋まっていた。先生が空間を求めて前に進んでいく。俺はリュックを腹に抱えなおすと、先生の後ろをついていった。  バスの前方にある、横向きの座席の前に、吊り革が二つ並んであいていたので、そこに滑り込む。進行方向に右半身を向ける形で吊り革につかまった。先生は右手首を吊り革に引っ掛けている。先生の左側に立ち、左手を上げた。二人の間に余裕はあるものの、少しでも動いたら先生の体にぶつかってしまいそうだ。意識しはじめたら、触れていないはずの肩が熱くなってきた。先生が発する熱を敏感に感じ取ってしまっているのかもしれない。  窓越しに自分と目が合った。すごくこわばった顔で、緊張しているのが丸わかりだ。目だけを動かして、窓の中の先生の顔を盗み見る。無表情でまばたきを繰り返しているが、その焦点はどこにも合っていないように見えた。  ――先生に俺の緊張がうつっちゃったのかな。先生も俺を意識してくれているんだったら、嬉しいかも。ああ、でも気まずい。  車内で会話している人たちは少ないし、しているとしても小声だったので、俺が声を出したら、バスに乗っている人みんなに聞こえてしまうだろう。なおさら先生と何を喋っていいか分からなくなる。  その時、手の甲に何かが触れた。確認するために視線を少しずつ下げていくと、先生の手の甲だった。ためらいがちに何度か当てられたあと、先生が小さく息を吐いた。どうしたんだろうと思った瞬間、先生の手が下から俺の指を包み込んだ。先生の手のひらで俺の指が折りたたまれて、右手が少しだけ先生の方に引き寄せられる。心臓がきゅっと縮んだ。  驚いて隣を見るが、先生は相変わらず真顔で窓に目を向けていた。口をわずかに開け、肩を上下させている。先生がするりと手を動かして、親指とそれ以外の指で俺の手を挟むようにつなぎなおした。先生の親指が俺の小指の付け根をかすめた。先生の親指がワイパーのように動いて、次は手の甲の小指側から人差し指にかけてなぞられる。骨と指の形を確かめるように、何度も何度も。  何これ。恥ずかしい。俺、先生に、手、握られて――。頭の中が真っ白になる。バスが揺れ、肩がとん、と触れ合った瞬間、何事もなかったかのように解放された。 「すみません」  先生が俯いて小さな声で謝った。その謝罪は、肩がぶつかったことについてなのか、それとも、突然手を握ったことについてなのか。どうして急に俺に触ってきたのか。なんで目を合わせてくれないのか。気になることはたくさんあるけど、聞けない。混乱していて、全然思考がまとまらない。  先生の手の感触がまだ残っている。俺は強くこぶしを握りしめた。先生にもらった熱を、少しも外に逃がしたくなかった。 * 「ここから五分ほど歩きます」  無言でバスに乗っていたくせに、駅前でバスを降りたとたん、先生が涼しい顔で話しかけてくる。あの出来事は夢だったのかと思いそうになるが、俺の右の手のひらには、くっきりと爪の跡が残っている。  俺ばかりこんなに動揺しているのが悔しい。思わず先生をにらんだ。先生は困ったように眉を下げて、また「すみません」と言った。 「なんで謝るの?」 「君を怒らせてしまったようなので……」  ――勝手に俺の手を握って、変な空気にしたのは先生なのに、「君を怒らせてしまった」から謝るってどういうこと? 触られたことに怒ってるわけじゃないし! 先生が平然としてるのが悔しいだけだし!  先生にもてあそばれているような気分になって、腹が立ってくる。  ――先生はどうせ俺のこと何とも思ってないんだ! モテるから、手をつなぐくらい大したことじゃないんだ! 悔しい、悔しい、悔しい! 「怒ってないし」  唇が自然と尖った。 「怒ってるじゃないですか」  先生がため息をつく。 「怒ってないってば……!」  キッとにらみをきかせると、先生が姿勢を正してから腰を折った。 「先ほどは、普段の僕なら絶対にしないようなことをして君を困らせてしまい、申し訳ありませんでした。おわびに僕のお気に入りの店で、ケーキをごちそうします」  「普段の僕なら絶対にしないようなこと」という言葉に、溜飲が下がる。先生も冷静なわけじゃなかったんだなと分かったから。 「じゃあ許す」  俺の唇の形は尖ったまま元に戻らなかったが、それを見た先生が少し笑った。 「『許す』ってことは、やっぱり怒ってたんですね」 「怒ってたのは先生が謝るからで……。困ってないし、嬉しかった」  恥ずかしくて何がかは明言できなかった。でも、先生が息を飲んで赤くなったから、意味は伝わったのだろう。 「行きましょうか」  先生が歩き出した。歩道が狭くて、二人で横に並ぶと道をふさいでしまう。どうしようかためらっていると、向こうから女性が歩いてくるのが見えた。人とすれ違う余裕を残しておくために、先生の後ろを歩いていくことにした。二人の影が、ようやく重なった。

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