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頑張ってきた自分を信じて 3

 一年があっという間なのだから、一ヵ月なんてもっとあっという間だった。  ついにA大の二次試験が迫ってきていた。平常時であればA大へは一時間半で行けるのだが、今は冬だ。共通テストの日が吹雪だったように、万が一天候の変化で電車が動かなかったら困るという理由で、俺は前日のうちに県をまたいでおいて、その日は駅前のホテルに宿泊し、翌朝バスで大学へ向かうことにした。  俺が出発する前日、つまり二次試験の二日前の夜。 「仕事休めなくて、ついていけなくてごめんね」  母さんが申し訳なさそうにするので、俺は笑ってみせた。 「大丈夫。オープンキャンパスの時も一人だったし。それに、もう高校生だから電車もバスも一人で乗れるよ!」  ホテルに一人で泊まるのは初めてなので、ちょっぴりドキドキするが、そんなことを言ったら、母さんにさらに罪悪感を抱かせてしまうだろう。大丈夫、大丈夫。心の中で唱えていると、母さんが言った。 「健人くんに連絡しておこうか?」 「なんでそこで先生の名前が出てくるの?」  心臓が跳ねたのを気取られないように、慎重に答える。 「なんでって、オープンキャンパスの時は悠里から呼び出したでしょう? 健人くんがいてくれたら心強いかと思って」 「しなくていい」  自分でも思ったより冷たい声が出て、びっくりした。母さんも驚いた顔をしている。 「そう……。分かった」  母さんはそれきり何も言わなくなった。俺は、母さんから目をそらした。去年の夏、模擬試験の結果を送った時のように、先生から連絡がすぐに返ってこないかもしれない。もしそうなったら、受験で実力を発揮できる気がしなかった。こちらから何も送らなければ、やきもきすることはないと思い、反射的に断ってしまったが、俺を気遣って提案してくれた母さんに悪いことをした。でも、今更謝るのもなんか変だ。 「荷造り、してくるね」 「分かった。忘れ物ないようにね」 「うん」  気まずい雰囲気のまま、俺は自室に向かった。 *  修学旅行の時に使ったボストンバッグを押し入れから引っ張り出して、着替えを筆頭とした必要なものを詰め込んだ。リュックには、筆記用具と健人先生からもらったA大の過去問題集を入れる。古典と英語の単語帳、数学の公式の早見表も一緒に入れた。佐々木にならって、手回し式の鉛筆削りと置き時計も持っていくことにした。置き時計は目覚まし時計として使っているから、明日の朝、鞄に入れるのを忘れないようにしないと。  他に持っていくものはないか、と本棚を眺めると、中学一年生の英語と数学の問題集が目に飛び込んできた。  ――懐かしい。  開いて見てみる。少しけだるげな俺の文字と、健人先生のいびつな赤い花丸。全てはここから始まったのだ。あの日、先生が「諦めてしまっているのが、もったいない」と言ってくれなかったら、今の俺は存在しない。  もし、先生があのまま家庭教師を辞めていたら、俺がA大を目指すことなどなかっただろう。「勉強なんてしても意味がない」と思ったままで、その分野に興味があるなしにかかわらず、俺の偏差値でも入れそうな専門学校や短大に行っていたに違いない。または、就職して高卒で働く道を選んでいたかもしれない。  中学一年生の問題集は、受験には全く関係ないから迷ったけれど、二冊ともボストンバッグに詰めた。先生が俺に最初にくれた「プレゼント」だから。「君を『馬鹿』のままではいさせません」という宣言どおり、先生が俺の学力の伸びを信じてくれた「(あかし)」でもある。  この問題集を解いた時の俺は、A大を受験する未来がくるなんて、みじんも思っていなかった。「期待してますよ」と言われて戸惑ったけれど、嬉しかったという気持ちを抱いたことを覚えている。誰かに期待してもらえたこともだけど、何より、その期待にこたえたいと思う気持ちが俺の中に残っていたことが、すごく嬉しかったのだ。あの時こんな感情を呼び覚ましてくれたのは健人先生だ。  去年から、先生を追いかけたいという情熱だけで、ここまで突っ走ってきた。一年前はA大生のことを「雲の上の存在」と思っていたのに、今やそこに仲間入りをするチャンスがめぐってきているなんて、自分でも信じられない。恋のパワーは偉大だな、なんて思って、一人で笑った。  先生に出会えて、先生を好きになって、本当に良かった。先生が描いた花丸を思い浮かべながら思う。  ――あと本当にもう少し。頑張ろう。  俺はもう一度荷物を点検すると、ボストンバッグとリュックのチャックを閉じた。リュックにつけた赤いお守りが揺れた。 『また来年。絶対に会いましょう』  八月、別れ際の先生の言葉を思い出す。俺は、お守りに向かって頷いてみせた。

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