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頑張ってきた自分を信じて 6

「風邪ひいたらどうすんの」  俺の頬が先生の頭に触れる。いつもはあんなにさらさらしている髪の毛は、冷え切って、つららのように鋭かった。 「僕はいいんですよ。心配なのは君の方です。僕のせいで、試験前日という大切な日に、外で立ち話する羽目になっている。泣かせるし、来なきゃ良かったですね。本当に申し訳ありません」  しおれた声で言うから、「そんなこと言わないでよ」と先生の耳元で囁いた。びく。先生の肩が跳ねた。  腕から力を抜いて、足を後ろに引いた。先生が素直に俺を解放してくれる。正対するように、少し距離を取った。先生は、不安げに俺を見つめていた。でも、この言葉は先生の顔を見て言いたかったから。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだけど、笑顔を作った。 「今日、俺を待っててくれてありがと。嬉しかった」 「君にそう思ってもらえて良かったです。待っていた甲斐がありました」  先生が、ふっと力を抜いて笑った。その顔を見て、オープンキャンパスの時に宣言した内容を思い出してしまった。 「あ。まだA大に合格してないのに先生に会っちゃった……」  明日が本番なのに、先生に会ったことで満足して、モチベーションが下がっちゃって、試験がうまくいかなかったらどうしよう。先生を見つめると、微笑まれる。飼い犬に触れるような柔らかさで、頭に手を置かれる。 「そんな不安そうな顔しないでください。今日は、大学に僕がいただけですよ。それに、『次に会うのは頑張った俺の姿を見せる時でありたい』とも言っていました。共通テストを頑張ったからこそ、二次試験を受けることができるんでしょう? 今の君も『頑張った姿』ですから、会っても問題ないはずです」 「そう、なのかな?」 「そうです」  はっきりと言い切られて、少し気が休まる。俺の表情に変化があったのか、先生がほっとしたように息を吐き出した。 「まずはここまでお疲れ様でした。よく頑張りましたね」  突然労をねぎらわれた。また鼻の奥が痛くなった。 「俺、大丈夫かな。明日、ちゃんとできるかな」  先生の優しさに甘えて、誰にも吐き出せなかった弱音を口にしてしまう。先生はじっと俺の目を見て、言い聞かせるようにゆっくり話した。 「大丈夫、大丈夫ですよ。君は実力があります。赤点ばかりだった君が、たった一年でA大を受験できるくらいまで学力が伸びたんですから、絶対に大丈夫です。今日は体にいいものを食べて、早く寝て、明日に備えてください」 「……母さんみたい」  俺が言うと、先生がムッとした表情になった。 「ちょっと! 真面目に言ってるんだから茶化さないでください」 「ごめん、つい。嬉しくて」  ふっ、あはは。声を出して笑うと、先生が目を見開いた。戸惑うようにさまよったあと、俺に視線が戻ってくる。先生は頬を緩ませた。 「リラックス、できました?」 「うん。おかげさまで」  俺は、笑顔のまま頷いた。先生がおもむろに手袋を外し、コートにしまった。むき出しになった右手を、伸ばしてくる。 「頑張ってください」  先生の口はそれ以上動かない。だけど、ホワイトデーの、先生の声が聞こえた気がした。 『必ずA大に来てください。待ってます』 「約束……」  俺が呟くと、先生が目を細めた。 「そうです」  俺も手を前に出した。先生の手を力強く握る。 「あつっ! 熱があるんじゃないですか!?」  先生が大きな声を出すから、びくっと体が跳ねてしまう。 「違うよ。先生が冷えてんの! 家帰ったら、ちゃんと湯船に浸かるんだよ。シャワーで済ませたらダメだからね」 「君こそ、母親みたいじゃないですか……」  先生が眉を下げた。俺は声を出して笑った。 「ふへ」  俺の口から変な音が出て、今度は先生が笑う。ひとしきり笑ったあと、示し合わせたかのようにぴたりと二人の声が止まった。  とても静かだ。先生が俺の顔をじっと見ている。俺も見返した。いったい何秒経っただろう。分からない。先生の顔が少しずつ近づいてきているような気がする。  ――もしかして、キス、する?  心臓がうるさい。先生は、こんなに至近距離でも、やっぱり「きれいなひと」のままだった。俺好みのきれいな顔が迫ってきて、ドキドキする。付き合ってもないのにキス、か。……他の人とだったら嫌だけど、先生にだったらされてもいいや。静かに目を閉じた。

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