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頑張ってきた自分を信じて 7

「あー、懐かしいなぁ。この門、お母さんが在学してた時と同じだ」 「住むならどの辺がいいかな」  急に女の人の会話が聞こえて、反射的に目を開ける。繋がれたままだった右手が勢いよく離された。  先生がぐりんと後ろを向き、しゃがみ込んだ。そのすぐ横を母親と制服を着た女の子が通り過ぎるのを見て、我に返る。  ――ここ、大学の正門だった。先生と二人きりじゃなかった。  先生が立ち上がって、こちらに体を向けたが、視線がまったく定まっていない。右腕で自分の口元を覆って、何か喋った。 「と、とにかく、もうひと頑張りです! 応援しています」  くぐもっていてよく聞こえなかったが、そのようなことを言った。 「ありがとう」  ――キス、しそこねた。もししてたらどんな感じだったんだろう。  そんなことばかり考えてしまう。  ――やっぱり会わない方が良かったかも。また心を乱された。先生のせいだ。……先生は俺以上に動揺しているみたいだけど。  俺と一切目を合わせず、コートのポケットを探り、つかんだものを差し出してくる。 「これ、持ってってください」  俺は手のひらを広げたが、目測を誤り、先生が手を離した瞬間に、地面にバサバサとばら撒かれた。  腰を折ってつまみ上げてみる。袋に入った使い捨てカイロだ。それが五個。 「あああああ! すみませんっ!」  先生がしゃがんで、落としたものを必死にかき集めはじめる。その情けない背中を見下ろしているうちに、愛しさが込み上げてきた。  先生も完璧ではないのだと分かったら、なんだかパワーをもらえた気がした。絶対に明日も頑張れる。根拠のない自信がわきおこった。  再び立ち上がった先生と目が合って、不服そうな顔をされる。 「何で笑ってるんですか?」 「先生がかわいいから」  愛おしい。かわいい。好き。大好き。にこっと笑ってみせる。先生が顔を真っ赤にした。 「からかわないでくださいっ!」  五つのカイロを押しつけてくる。 「こんなにいらないよ!」  突き返すと、先生が「ああっ!」と叫んだ。急に大きい声を出さないでほしい。心臓に悪い! 「落ちたものは嫌ですよね、僕としたことが気がきかずすみません」  と新しいものを差し出された。やっぱり五個。手を出さないでいると、先生が俺のコートのポケットに勝手にねじ込んできた。 「いったい何個持ってんの……?」  眉をひそめる。先生がすまし顔で言う。 「未使用は十個です。あとは、僕の体に二個貼ってありますし、ポケットの中には貼らないタイプも一個」  貼らないカイロを取り出し、なぜか自慢げに、シャカっと俺の目の前で振ってみせた。 「へえ」  適切な言葉が思いつかなかった。 「反応が薄い!」 「他に何て言えばいいの?」 「『すごいですね』?」 「すごいですね」  感情を込めずに言う。 「……あまり嬉しくないですね」  先生が顔をしかめた。 「自分でそう言えって言ったのに」  一瞬沈黙して、先生の二つの目が俺を捉えた。 「長々と引き留めてしまって、すみませんでした」  頭を下げられる。 「大丈夫。会えて良かった」 「はい。会えて良かったです」  先生に手を差し出す。ぎゅっと握られる。三秒後、先生の力が抜けていく。まだまだ引き留めたくて、今度は俺から握り返した。 「明日、『約束』守ってくる」 「はい。応援してます」  名残惜しいけれど、いつまでもここにいるわけにはいかない。本当に風邪をひいてしまいそうだ。手を離した。先生が微笑む。 「いってらっしゃい」  俺は先生の目を見て頷いた。先生の横をすり抜け、教育学部棟に向かって歩きはじめる。試験会場を――俺の一年をかけた勝負の地をこの目で見るために。

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