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門出 3

 やかんが音を立て、お湯が沸いたことを知らせてくれた。俺はそれを保温ポットに移し、戸棚からインスタント味噌汁とお椀を二個つかんでテーブルに並べた。  二人分の味噌汁を作っているところに、母さんが戻ってくる。 「あれ、まだ食べてなかったんだ。どっちがいい?」  母さんが椅子に座りながら伸びをした。 「じゃあ、ひれカツにする」 「味噌汁ありがとね」 「どういたしまして」  箸を持つ前に「いただきます」と言いながら手を合わせると、母さんが驚いた顔をした。健人先生と去年の夏に会ってから、家では「いただきます」をするようにしていたのだが、ここ三ヶ月くらい、すっかり忘れてしまっていた。ずっと忘れていたということにも、今気がついた。それほど切羽詰まっていたということだろう。  母さんの顔を見て照れ臭くなって、目を伏せてお椀に手をかけた。ふふっという母さんの笑い声が聞こえた。 「召し上がれ。私もいただきます」  冬になってから、俺は受験のことで頭がいっぱいだったし、母さんも仕事が忙しいみたいで上の空だった。会話せず、作業的に食べ物を口に運ぶことが多かった。「いただきます」と手を合わせて、二人でゆっくりとテーブルを囲むのは、かなり久しぶりだ。 「やっぱり、お肉屋さんのとんかつは美味しいね」  母さんが微笑む。 「うん。これが合格発表直前じゃなかったら、もっと美味しかったかも」  俺の言葉に母さんが「そうかもね」と吹き出した。母さんのおかげで、冗談が言えるくらいまで、気持ちに余裕ができたみたいだ。 「今日、早く帰ってきてくれてありがとね」  ぼそっと呟くと、母さんが黙って俺の弁当のふたの上に卵とじのカツを一切れ乗せてくれた。 *  昼食を食べ終え、リビングで母さんと二人、パソコンの画面を見つめる。俺は椅子に座り、母さんはその後ろに立っていた。アクセスが集中しているらしく、合格発表の画面に繋がったのは午後一時半過ぎだった。  合格者の番号が若い順に並んでいる。俺はゆっくりとマウスホイールを動かし、画面をスクロールした。自分の受験番号に近づくにつれ、心臓がバクバクしてくる。呼吸が浅く、速くなるのを感じる。スクロールする手はそれに反比例するように遅くなっていく。もう一回マウスホイールを操作すれば、俺の番号の有無が分かってしまうと思った瞬間、ぴたりと手が止まった。背後から母さんの呼吸音が聞こえる。  ――神様、仏様、健人様、どうか俺にA大の合格通知をください。  一瞬目をつぶり、お祈りしてから、マウスを動かした。 「あ、あった……」  見覚えのある数字が目に飛び込んできた。全身から力が抜けた。 「えっ……! ほんと!? やった、やったね悠里!」  後ろからのぞき込んでいた母さんが、俺の肩に手を回すようにして抱きついてくる。俺は呆然と画面を見つめていた。見間違い、じゃないよね? 何度も受験票と画面を交互に見て、数字を照らし合わせる。間違いなく俺の番号だった。  前触れもなく、目から涙が出てきた。 「母さん、俺……俺っ……」  服の袖で目元をぬぐうが、とめどなくあふれてくる。 「うん。何も言わなくていいよ。合格おめでとう。よく頑張ったね」  母さんの腕に力がこもった。その温かさが心地よくて、俺は小さな子供みたいに、母さんの腕の中でしばらく泣いてしまった。

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