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門出 6

 遠慮がちなノックの音が聞こえ、返事をすると、母さんが何かを持って立っていた。 「どうしたの?」  俺が近寄ると、母さんは話しづらそうに目を伏せて、俺に腕の中のものを差し出してきた。 「お父さんのスーツ」  受け取ったものを広げて見てみる。濃紺のジャケットとパンツ、グレーのネクタイだった。 「悠里の小学校の入学式で着てたスーツなの。他のは処分したんだけど、これだけはどうしても捨てられなくて。着てみてくれない?」  そう言われれば、見覚えがあった。リビングに飾ってある写真の中の父さんが、これを着て笑っていた。 「分かった」  俺が頷くと、母さんはほっとしたような顔で部屋の外に出ていった。俺は、制服のシャツをクローゼットから引っ張り出して、部屋着からスーツに着替える。  きゅっとネクタイをしめ、部屋のドアを開けた。着るものが変わっただけで、なんだかすごく大人になった気分になるのはなぜだろう。  ドアの前で待っていた母さんは、俺を見るなり涙ぐんだ。 「ああ、ぴったり。大きくなったね、悠里。あんなに小さかったのに……」  母さんは、俺を通して父さんを見ているような気がした。その目に見つめられ、父さんに全身を包まれているような錯覚を起こす。 『な? 諦めなくて良かったろ? 悠里はやればできる子なんだ』  父さんの声、幻聴まで聞こえてくる。 「これ、大学の入学式で着てもいい?」  気づけばそう言っていた。母さんが泣きながら笑う。 「いいよ。お父さんも一緒に入学式に連れて行ってあげて。それ、全部悠里にあげる。革靴とベルトとネクタイは新しいのを買ってあげるね」  母さんにつられて、俺までほろりと涙をこぼしてしまった。 *  入学式の翌日、俺と母さんは、玄関先で向き合っていた。  昨日は母さんが運転する車で一緒に行ったから、今日が初めての一人での登校だ。少しだけ……いや、かなり緊張している。 「行ってらっしゃい」  母さんの目が潤んでいる。俺は苦笑した。 「なんで泣いてんの。夕方には戻ってくるよ。行ってきます」  一歩前に踏み出してから、思い直して振り返る。 「母さん、今までありがとう」  今度は母さんが笑う番だった。 「何言ってんの。夕方戻ってくるんでしょ? 今生の別れみたいなこと言わないでよ」 「そうだね。でも今言いたくて」  母さんが腕を広げて近づいてきた。ぎゅっとハグされる。母さんの頭が、俺の胸にこつんと当たった。あれ。母さんって、こんなに小さかったっけ。 「悠里。改めて合格おめでとう。すごくすごく頑張ったね。悠里はこんなに頑張れる子だったんだね。お父さんが亡くなってから、私が頑張らなきゃって思いすぎて、余裕がなかった。一人でなんでもしなきゃって気負いすぎてたんだよね。『なんでこんなこともできないの』ってイライラしてしまってごめんね。『馬鹿』っていっぱい言ってごめんね。いくら謝っても謝り足りないけど、本当にごめん」  母さんは涙声だった。俺は母さんの背中に腕を回して、力を込めた。 「大丈夫だよ。俺、この一年で、勉強を好きになれたよ。俺は『馬鹿』って言葉に甘えてただけで、努力できないわけじゃなかったんだ。やればできるって分かったから、俺はもう大丈夫。母さん、高二の三学期、俺のことを何とかしようと思ってくれてありがとう。健人先生に出会わせてくれて、ありがとう。俺がA大に入れたのは、母さんのおかげだよ」  腕の力をゆるめると、母さんが俺を見上げた。 「ありがとう。悠里は本当に優しいね。自慢の息子よ。行ってらっしゃい」  背中をばしんと叩かれて、息が一瞬止まった。胸がじんとした。目から何かがじわりとにじみ出しそうになる。慌てて笑顔を浮かべ、母さんを見つめた。 「ありがとう。行ってきます」  きびすを返し、玄関扉を開ける。頭を上に向けると、雲一つない青空が広がっている。新生活が始まろうとしていた。

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