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(ホテル)名前を呼んで 2

「お先にいただきました」  風呂上がりの僕を見た悠里は、一瞬目を泳がせて、恥ずかしそうに俯いた。 「うん。じゃあ俺も入るね」  リュックの中から小さめの鞄を取り出して、ベッドの上にあったパジャマと共に胸元に抱え、風呂場に向かっていった。鞄の中には下着などの入浴セットが入っているのだろうか。  バスルームの鍵がかけられて、やがて水音が聞こえてきた。僕は、備え付けの椅子に座ってため息をついた。この薄い壁を一枚隔てて、全裸の悠里がいるのだと思うと、下半身に手が伸びそうになる。  ――だめだ。他のことを考えよう。素数……は考えすぎて、素数をカウントしながら妄想できるようになってしまったから、羊でも数えてみるか。  羊が一匹、羊が二匹……。  全く効果がなかった。  髪の毛はほとんど乾いていたが、ドライヤーで乾かすことにする。これならシャワーの音が聞こえないし、両手もふさがる。髪の毛をかきむしりながら、羊のことだけを考え続けた。 ※  椅子にもたれかかって羊を数えているうちに、バスルームの扉が開く音がした。羊はもう僕の脳内を埋め尽くして、そこらじゅうでメェメェ鳴いており、うるさいくらいだった。 「おかえりなさい」  バスルームの方向に首を向けると、ホテル備え付けのシャツ型ガウンタイプのパジャマを着た悠里が、のぼせたような表情で歩いてきて、僕は目を見開いた。悠里に駆け寄る。 「どうしました? 具合でも悪いですか?」  悠里は静かに首を横に振った。 「中、きれいにしてきたから」 「なか、ですか?」 「……腸」  一瞬何を言われているのか分からなかった。悠里が覚悟を持ってこの旅行に臨んでいたのだと理解できたのは、顔を真っ赤にしながらも、僕から視線をそらそうとしない姿を見たからだった。  羊の鳴き声がぴたりと止まる。僕の頭の中は、一瞬で悠里に支配されてしまった。  ――この関係が、動き始めるかもしれない。  悠里も僕を求めてくれているのだ、と気が緩みそうになる。  何重にも鍵をかけて、奥底に押し込めてやったはずの感情が、顔を出しはじめた。慌てて深呼吸する。自分に言い聞かせる。  ――悠里を傷つけたくない。悠里を大事にしたい。しっかり意思確認をしなければ。 「君は、それでいいんですか?」 「『それ』って何?」 「ですから、その……挿れられる側で、いいんですか?」 「分かんないよ、そんなの……」  悠里が目を伏せた。 「ですよね」 「でも、先生は黒髪だし、眼鏡だし、敬語だし、いじわるだし、『攻め』ってやつなんだろ?」 「君は何を言ってるんです?」 「だって読んだもん。そういうやつ」 「いったい何を読んだんですか」 「ネットのび、びーえる小説とか漫画とか。いろいろ。……エロくてびっくりした」 「ああ、君はもう十八歳ですから、合法的に読めますね」  違うこんなことを言いたいわけじゃない。何を口走っているんだろう。僕も冷静ではないのだ、と気がつく。 「俺が読んだやつだと、先生みたいな見た目の人が『攻め』だったから、先生もそうなのかと……」 「眼鏡受けもあったと思うのですが」 「えっ」  悠里の反応に我に返る。こんなの、自分も読んだと暴露しているようなものだ。恥ずかしい。 「いえ、何でもありません。確認ですが、君は僕とセックスがしたいということですか?」  悠里が無言で固まった。 「どうしました?」 「なんか、先生の口から、セ……ックスって聞くと、ドキドキする」 「なぜ」 「言わなそうだから、かな……」  悠里が俯いた。恥ずかしがるポイントがよく分からない。 「そうですか。それで、君は僕とセックスがしたいんですか?」 「言わなきゃだめ?」 「はい。僕に気を遣って準備をしてくれたのだとしたら、すごく嬉しいのですが、君の気持ちを一番に考えたいです。僕のことは考えなくていいので、素直な気持ちを聞かせてください」  弾かれたように顔を上げた悠里は、僕と目を合わせて、視線を泳がせて、手をモジモジとこすり合わせてから、ひとことだけ絞り出した。 「……したい」

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