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第2話 即時の復活
溺れている。
目の前で手を打ち鳴らされたような、突然降って湧いた意識の浮上だ。
喉奥まで水が入ってきている。肺に入れば終わりだ。
焦って両手で何かを掴んだところで、自分の顔の輪郭が熱いことに気付いた。というか、水? 待て、水じゃない。水より粘っこい、緩い水飴に似た――。
……何か、口の中で動いてないか?
ばち、と目が開く。二つの瞳と視線が絡んだ。
「――――ッ! ご…ほ、げぅ、おぇっ」
勢いよく相手を突き飛ばす。離れた口同士から、粘液がしたたり落ちる。やばい、飲んだ。相手はあっさり離れると、手首をさすった。
何? 何事?
涙目で周囲を見渡すと、自分の部屋だった。蹲ったすぐ傍に足の低いテーブルがあり、若干扉側に向きがずれている。
そうだ、俺はベッドから落ちて机に頭をぶつけて、首から嫌な音が――。
そこまで考えて、はっと下半身に手をやる。ない。服が。
そう、俺は一人淋しく己を慰めていたわけで、だから下はすっぽんぽんなんだった。違う違う、そういうことじゃない。そんなのはどうでもいいんだ。つまり、……誰?
「感謝しろよ。間抜けな死体になるところだったんだから」
笑いを含ませて言ったそいつは、俺のベッドに座っていた。右手の人差し指で黒い何かをひゅんひゅん回している。
「おまっそれ俺のパンツ!」
「うるさ」
ぽいっとそいつは自分の背中にパンツを放ってしまう。いや返せよ! 咄嗟に駆け寄り――トレーナーで前を隠しながら――そいつの体越しに下着に手を伸ばす。が、強めに肩を掴まれてそいつの目の前で止まった。
「命の恩人に言うことぐらいあるだろ?」
「何言ってんだあんた、つかそもそも」
誰、とは口から出なかった。出せなかった。顔面の暴力に。
何だこの目つきの悪い美人は。
俺は、男の容姿にはあまり頓着しない。クラスの女子がひそひそ格好いい人について話していても、その顔面なら普通では? などと思ってしまう。雰囲気で顔のパーツの配置は変わらない。まあ、普通平均極まれりの顔で何を偉そうなことを言ってるんだって話だけれども。
紛れもなくかっこいい、と思うのは天野ぐらいで……い、いいや、今はやめておこう。
とにかく、目の前の男は美形だった。年齢は俺より少し上ぐらいだろうか。
高いコンディショナーでも使ってるのか? と訊きたくなるほど、短い髪は黒く艶々している。ちょっと艶々しすぎじゃない? 括っても髪留めが落ちそうだ。
目も真っ黒でなんか潤んでるし、ほんとに男? いや男だ。この、俺の肩を掴む容赦のないパワーは男のそれだ。体格もそうだし。
……なんか、見覚えのある服着てるな。俺のトレーナーと似てない?
つらつら考えている内に、焦りまくっていた頭が冷えて行く。
下半身丸出しの俺と、知らないイケメン。
え、これどういう状況?
冷えたと思ったら、また混乱の波が襲って来る。
そう、俺はもう気付いている。目が覚めた時、顔の輪郭が熱かったのはこいつの手で覆われていたからで、訳も分からず掴んだのはこいつの両腕で、口の中で蠢いていたのは、その、喉に落ちて来ていたのはこいつの、だ、だえ……
「ファーストキス……」
意図せず漏れた呟きに、イケメンは豪快に噴き出した。そのまま声を上げずに笑いだす。目が綺麗なアーモンド型になる。目つきが悪いのは、眉を寄せているからだったらしい。
な、なんて失礼な奴だ。
俺はイケメンの胸元をばしばし叩いた。頬から耳にかけてが急速に熱くなる。
「笑うな! 大事だろ、こ、こういうのは、大事……」
言いながら、天野の顔が浮かんで勢いを失う。
別に、別にとっておいてあるとか、そういうんじゃなかった。初めては好きな人と~なんて、少女漫画チックなことを言うつもりもない。ただ、今までそういう巡りあわせで、そういうことをしてこなくて、それで今好きな人がいるなら、その人に捧げたいな、と思ったりしていただけで……。
そんなつもりはないのに、涙目になってしまう。イケメンは不意に笑うのをやめて、俺の顎を掴んだ。ぐっとその恵まれた顔立ちが近づく。
「人工呼吸ぐらいでぐちゃぐちゃ言うなよ。まあ勘弁してくれって」
嘲るような前半と、妙な甘さの滲む後半の温度差に震えかける。首を振って拘束から逃れた。
頭のおかしい奴だ。大体、どこから入って来たんだ。
パンツとかファーストキスとか、そんなことよりもっと重要なことがあっただろ、と脳内の自分が冷静な突っ込みを入れている。
「け、警察」
「好きにしろよ」
イケメンは意に介さない。怖いもの知らずなのか、馬鹿なのか。想像していなかった返答に俺が固まっていると、イケメンは一瞬俯き、「死体に戻るだけだぞ」と吐き捨てた。
「な、に……?」
そう言えば、さっきから命の恩人だとか、人工呼吸がどうとか言っていた。それに、俺は確かに首から床に落ちた、はず……。
「えっ……俺、えっ」
首に手をやる。曲がってない。テーブルに打ちつけたはずの頭も痛くない。額を押し込んでみても、しっかりした皮膚と骨があるだけだ。
イケメンが口を開く。口内で透明な糸が上顎と下顎を繋いだ。唾液、粘つきすぎじゃない?
「尻丸出しの死体で発見されたいって言うなら別だけどな。こんなのもあるし」
「ギャーッ」
イケメンはひょいとベッドの隅に転がしておいたエネマグラを摘まみ上げる。大慌てで飛び掛かったが、片手でいなされた。
「まままままだ使ってないし!」
「まだなぁ」
ニヤニヤ、嫌な笑みだ。
そう、今日初挑戦してみようかなーでもちょっと怖いしなーと思っていたのだ。本当。本当に。
必死に伸びをする犬猫に意地悪をするように趣味の悪い笑みを浮かべていたイケメンだったが、不意に真顔になるとエネマグラを持っていない方の中指で俺の胸を軽く突いた。
「変態エネルギーを集めろ。もしくは死ね」
「――は?」
……なんて?
「大まかに分類すると生気の類だが、お前は死んだ状況がアレすぎる。性への執着を持って埋めろ」
「え、死ぬって、どういう、え、俺今」
言葉が全然文章にならない。ぺたぺた俺は自分の体を触った。異常なし。むしろ軽いくらいだ。
イケメンは俺の胸元に突き付けていた手を後ろに回すと、さっき投げた俺の黒のボクサーパンツを掴んだ。輪ゴムで作る銃の要領で、ゴム部分を引っ張ってこちらに飛ばしてくる。普通に渡せよ。
下半身は大分寒くなってきていたことだし、取り敢えずパンツを履く。ズボンは?
「お前は三分前まで確かに死んでいた。俺が生き返らせたんだ。人間は周囲の環境や食事から生気を吸収し、活動によって排出する。だが、お前は一回死んでいるからそのへんがバグってる。排出一方になって、いずれ死ぬ」
「ほえ……」
生き返らせた? えっもしかしてあのキスで? ディープとかそういうレベルじゃなかったけど、あのやたらトロトロした唾液に秘密があるのか? 病院に提供した方がいいんじゃないか?
「変態エネルギーっていうのは……」
「語感があまりよくないが、端的に言えば性癖だ。ただし性交関連に限る。あまり一般的ではない性癖を解放した際に、周囲に放出される生気の一種だ。これの何がいいかと言うと」
イケメンはくる、と空気を人差し指で掻き混ぜる仕草をし、その指を舐めた。「濃いんだよ」
「生気が?」
「そう」
「ふぇー……」
「濃い目の性癖を持ってるやつを探して、セックスしろ」
「――え?」
「だからセッ」
「嫌だ!」
とんでもなくデカい声が出た。部屋の壁を震わせたかもしれない。イケメンが目を見開いて、四白眼になっている。イケメンは黒目の縁取りですら綺麗だ。
冷静な部分とは別に、俺の腹は瞬間的に沸騰していた。
どこの誰とも知れない相手とヤれって言うのか。ファーストキスも奪われて、更に貞操まで。俺は、俺は天野が――。
天野の静かな横顔。弓道着で矢を射る、眇められた眼差し。
「っ俺は」
「そらみー?」
はっと扉の方を振り返る。母さんだ。階段を上る軽い足音が近づいてきている。いつの間にか、階下のテレビの音は止んでいた。
ま、まずい。
部屋に視線を巡らせる。三往復ぐらいして、ようやくベッドの下、窓側にズボンがくしゃくしゃになって丸まっているのを見つけた。這いずるように回収し、素早く足を突っ込む。ぴょんぴょん跳ねながら何とか扉に辿り着いた瞬間、目の前でそれが開いた。
「何やってるのよ一人で」
「いや、何も、そのー、ゲームしてて」
かなり苦しい言い訳だ。怪訝そうな顔をする母さんの前で、壁になろうと試みる。が、俺の努力もむなしく母さんはひょいと肩越しに室内を覗き込んだ。ひゅっと息が止まる。
いや待て。何で俺が緊張しなきゃならないんだ。むしろ母さんがあのイケメンを不審者認定してくれた方が、でも何か俺が死ぬとか物騒なこと言ってたし……。
俺のじたばたした心境は知らぬ様子で、母さんは首を傾げながら引っ込んだ。あ、白髪。言ったらチョップが飛んでくるので指摘してはいけない。
「まあ、ほどほどにね」
母さんはそれだけ言って、階段を下りて行った。……え?
室内を振り返る。いない。誰も。ベッドだけが、半円に凹んであのイケメンの痕跡を残している。クローゼットに隠れたんだろうか。恐る恐る取っ手を引く。開く扉に沿ってコートや上着類が揺れた。いない。
「出かけるのか?」
「ギャピッ」
耳元で吐息混じりの声がして、喉が引き攣る。絶対に喉をいわした。目を弓なりにして笑うイケメンを睨み上げる。
「あんた、どこにいたんだよ」
「この部屋」
「嘘つけ」
嘘じゃない、とイケメンはますます笑う。馬鹿にされている気がして腹が立つ。どちらかと言えば恐怖を感じるべきであろうこの状況で。
ベッドに歩み寄ると、イケメンは枕を持ち上げた。
「あ」
「感謝しろよ」
枕の下には、ローションボトルとエネマグラがあった。わざわざ隠したのか? 何でそんなこと。さっきから俺のことをおちょくっているような口調ばかりなのに。
「――結局、あんた誰」
「相手に訊くなら、まず自分が名乗るべきじゃないか? ソラミちゃん」
こいつマジほんと……。ちょっと見直しかけたのに、すぐこれだ。口端が小刻みに震えるのを押しとどめる。小学生だ。こいつ、精神性が小学生と同じだ。揚げ足を取るどころか、足を引っ掴んで逆さにしてくるタイプだ。
「……小竹空見」
「ソッラッミ~」
「おいやめろ」
そ⤴ら⤵みのイントネーションで歌い上げるイケメンの頭を叩こうと腕を振るが、ひょいと避けられる。ほんといい加減にしろよアホバカボケナス。
大体、そのからかいは生まれてこの方死ぬほど食らってきているのだ。こいつ曰く俺は死んだらしいから、死んでも食らっているのか? 最悪だ。色々と。
「オレは、あぶ――油崎だ」
「何、虻?」
「油崎」
ユザキと名乗ったイケメンはまた俺の耳に顔を近づけると、右手をこれ見よがしに開いた。拳を作り、人差し指と中指の間に親指を押し込む。ファック・サイン的なやつだ。下品なジェスチャーを俺の前で振りながら、耳に囁きを流し込んでくる。
「まあ、とっととヤっちまえ。お前は『こっち』だよな?」
「――ッ死ね!」
ぶん、腕を思いっきり振り回す。軽やかな笑い声だけを残して、油崎は消え去っていた。あんなに密着していたのだから、一瞬でどこかに隠れるなんて芸当は無理だろう。音も何もしなかったし。
つまり、その、人間じゃないんだろう。まあ薄々わかってはいたけれど……。
へなへなとその場に座り込む。
あいつの言っていたことは、どこまで本当なんだろう。セックスしないと死ぬって、そんな馬鹿な……。
もうオナニーを再開する気もなくなって、俺はしばらく床に座ったままだった。頭の中では、なぜか体育の授業でボールを片付けていた時の記憶が流れていた。カゴから落としてしまい、転がっていくボールを掴んで、「大丈夫か?」と言ってくれた天野のことが……。
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